■ありがとう
昨日、チヒロが計画したイエスの誕生日パーティなるものをやり、その後二人で過ごし、たった今イエスはチヒロを家まで送り届けて来たところだ。
自分と犬以外誰も居ないバー(貸切にしてあるので当たり前だが)のソファに座り、もう一度溜息を吐き出す。
あんな風に誕生日を祝われた事は初めてだった。
というより、誕生日を祝われた経験さえ、ほとんどない。
祝った経験も、ほとんどないが。
イエスの誕生日を祝うために、チヒロがレストランを予約したと知って「ありがとう」と滅多に言わない礼を言ったが。
そう言えば、あいつには言った事がなかったなと、思い出す。
来年の誕生日は盛大に祝ってやるからな――そう言ったあいつは、その来年のイエスの誕生日より前に、居なくなってしまった。
昨年の8月6日。
イエスの誕生日から三日が過ぎた日だった。
「なあ、イエス。お前、誕生日っていつだ?」
「は? なんでそんな事聞くんだよ」
あの日は、
誕生日はいつだなんて聞かれたのは初めてで、何故そんなことを聞くのか分からなかった。
不機嫌そうな口調で問うイエスには答えず、恭平はいつも通りの笑みを浮かべて答えを促す。
「いいから、いつなんだ?」
「……8月3日」
「過ぎてるじゃないか。何でもっと早く言わないんだ」
「んなこと、なんで言う必要があるんだよ」
「もっと早く聞けば良かった」
「おい」
小声で、ぶつぶつと何か言っている恭平に声を掛けてはみたものの、反応が返ってくる事はなく、イエスは呆れた様に溜息を吐き出す。
どのくらい経っただろうか、どうにか立ち直ったらしい恭平が、イエスに告げる。
「誕生日おめでとう、イエス。……来年の誕生日は盛大に祝ってやるからな」
「――は?」
イエスの肩を叩きながら告げられた言葉に、驚く。
今、こいつは何て言った?
誕生日おめでとう――だと?
「8月3日はお前の誕生日だったんだろ? 過ぎちゃったけど、おめでとう。何か欲しいものあるか?」
「……」
「おい、イエス」
「誕生日なんてただ一つ年をとるだけだろうが。何がめでてぇんだよ」
「お前が生まれて来た日だろう。おめでたいに決まってる」
「……んなこと、誰も思ってねぇよ」
誕生日おめでとうなんて言われたのは、この時が初めてだった。
祝われた事なんて、一度だってない。
嬉しいという気持ちは確かにあったが、それ以上に戸惑いの方が大きかった。
「少なくとも、俺は思ってる。――イエス、生まれて来てくれてありがとう」
「――はあ? お前、頭おかしいだろ」
「あのなあ、イエス。いくらなんでもそれは酷いだろう」
「酷くなんてねぇ。事実だ」
だから、嬉しいという気持ちは確かにあったのに、「ありがとう」の一言が言えなかった。
誕生日おめでとうなんて言われたのも初めてで、どうすればいいのか分からなかったというのもあるが。
「俺は、お前が生まれて来てくれて嬉しいと思ってるよ。じゃなきゃこうして会えなかったからね」
「俺となんて会わない方が良かったんじゃねぇか?」
「そんなことはない。……本当に、感謝してる。ありがとう」
ありがとう――その言葉は本来なら俺が言うべき言葉のはずなのに。
何故あいつが言ったのか。
本当にそう思ってるってのが分かったからこそ、戸惑いは大きくなるばかりで。
イエスと出会ったことはあいつにとって決して良い事ではないはずなのに。
何故あんなにも――。
そこまで思い出した途端、「どうしたんだ」という犬の声で思考が中断される。
「なんでもねぇよ。少し黙ってろ」
そう言えば、不満そうな声を上げたものの、何かを悟ったのか犬はそれ以上何かを言う事もない。
そのお陰で思考は再び、あの時へと遡っていく。
「今年は誕生日過ぎちゃったけど、来年はちゃんと盛大に祝ってやるからな」
「いらねぇ」
「遠慮するなって」
「遠慮なんてしてねぇ!」
そんなイエスの言葉など本気だとは思っていなかったんだろう。
少し考えて恭平が吐き出した言葉は、イエスが思ってもみないものだった。
「……過ぎちゃったけど、今から盛大に誕生日を祝おうか」
「だから、いらねぇって言ってんだろ」
「素直じゃないなあ、イエスは」
「てめぇ、いい加減にしろよ」
「分かった分かった。今年は諦めるよ。でも、来年は盛大に祝うからな」
「……勝手にしろ」
何を言っても無駄だと諦めて、溜息を吐き出してそう告げれば、恭平は嬉しそうに笑う。
なんで恭平が嬉しそうにするんだよ、そう思ったがそれを言葉にすることは出来なかった。
本当は、おめでとうと言われて嬉しかったのだ。
誰にも祝われた事のない誕生日。
嬉しくて、でも戸惑いの方が大きくて。
だから、どうすればいいのかも分からなくて。
あの時たった一言「ありがとう」と言えば良かったと、今更ながら思う。
「約束破ってんじゃねぇよ。バカ恭平」
そう思ってるのに口から出るのはそんな言葉で。
けれど、それも本心なのだ。
チヒロが予約してくれたレストランで、誕生日を祝われて。
戸惑いもあったが、嬉しいと思った。
けれど、何かが足りなくて。
何故ここにあいつが居ないのか――そんな事を思った。
今ここにあいつが居たなら、今ならば「ありがとう」と告げられそうな気がするのに。
それなのに、何故居ないのか。
何かがある度に、実感する。
もうあいつは居ないのだと。
二度と会えないのだと。
そんな事分かっていたはずなのに、改めて実感していた。
後悔なんてしてない。
それは、確かだ。
もう一度同じことがあったとしても、俺はまた同じ選択をする。
チヒロの為に、恭平を殺す。
あの時チヒロに告げた言葉は嘘じゃない。
それでも、どれだけ時間が経っても、埋まらないモノがある。
あいつの居ない日常は何かが足りなくて。
後悔はしていないが、それでも……思う。
何故ここにあいつが居ないのか、と。
――ありがとう、恭平。
二度と言ってやらねぇからな、と思いながら、もう告げられない言葉を心の中で告げる。
満ち足りた日々の中、どれだけ時間が経っても埋められないモノを抱えて。
何かある度に、こんな風に思い出すんだろう。
この先、ずっと。
END
2013/01/26up