■雨 〜after the rain〜

単独の任務が終わり帰ろうとしてふと空を見上げる。
いつもなら茜色の空が広がっている時間だが、空は厚い雲に覆われていた。
どうりで暗いと思ったと、乗ってきた装甲車に寄りかかるように立って、ただじっと暗い空を見上げる。
ぽつり、と見上げる顔に冷たい雫があたって、それが段々と多くなっていく。
あっという間に雨は激しく降り始めて、そんな中傘もささずにソーマは空を見上げたまま立ち尽くしていた。
いつも被っているフードを取り、雨に濡れるのも構わず空を見上げたまま立ち尽くす。
今日はもう、任務は入っていない。
だから、いつまで此処に居ようと問題はないが……帰りが遅ければリンドウが煩いな、と思う。
それでも、動く気にはなれなかった。
動けないほど疲れている訳じゃない。
ただそう、イヤホンをしていなくても、フードを被っていなくても、雨は外界の全てを遮断してくれる気がするから。
煩わしい音も、見たくないモノも、見られたくないモノも全て。
だから、ただ雨の中立ち尽くす。
雨が全てを洗い流してくれたらいいと、この身を構成するアラガミさえも全て、流してくれたならいいと、思う。
そんな事出来る筈がないと分かっていながらそれでも願っていた。

アラガミは先程倒したので全てだったのか、この場所にはアラガミの気配さえもうない。
雨音しかしない場所に佇んでただじっと、激しく降りしきりる雨を眺める。
雨に濡れた髪から雫が滴るのが鬱陶しくて、ソーマは乱暴に髪をかきあげる。
服も髪も雨を含んで濡れていて、体温が奪われていくせいか寒ささえ感じる。
それでも、外界から遮断された雨の中、装甲車に背を預けたまま立ち尽くしていた。
この世界にただ独り取り残されたそんな感覚に陥って――孤独になど慣れているのに、妙に恐怖を感じる。
何だかんだ言いつつソーマの視界に入る煙草を咥えた姿。
鬱陶しいとさえ思うその姿が此処にない事が、何故なのか妙に不安にさせる。
そう簡単に死ぬような奴じゃない事くらい分かっている。
アナグラに帰れば、任務が終わって直ぐに帰って来ないソーマに纏わりつくのが容易に想像出来て、鬱陶しいとさえ感じる。
それなのに、その姿がこの世界から消えてしまう事を考えると――どうしようもなく怖かった。
煩わしい音も、見たくないモノも、見られたくないモノも遮断してくれる心地よい空間。
それと同時に、失くす不安に囚われて――相反する感情に囚われて、身動きが取れなくなる。


「くだらねえ」


浮かんだ思考を振り払う為に、わざと言葉にしてみる。
本当にくだらないと思っていた。
そんなに気になるのなら、今すぐにアナグラへと帰れば良い。
そうすれば、いつも通り煩いくらいに視界に入ってくる姿があるはずなのだから。
なのに、動く事が出来ない。
その姿を求めて戻るのが癪に障るからか、雨に濡れて張り付く髪も服も、気持ちが悪いのに帰る気になれない、動けない。
だから、思う。
この雨が止んだなら帰ろうと、それまで此処に居ようと、そんな事を思っていた。
帰ればきっと、煩いくらいに視界に入ってくる存在が確かにあるはずだと言い聞かせて。

雨音しか聞こえない場所に、車が止まる音が響く。
続いて、近付いて来る足音――走り去る車の音。
振り返らなくても近付いて来るのが誰なのか分かったソーマは小さく溜息を吐きだした。
その存在があった事に安堵しつつも、何故か不安が拭えない。
こんな所にまで来る事に対する鬱陶しさと、安堵感と。
そして、無くならない不安。
それは全て、降りしきる雨のせいなのかもしれない。
雨のせいにしてしまうのが一番良いような気がした。それ以上考えたくなかったと言う事もあるが。


「ソーマ。お前こんな雨の中何してるんだ?」
「別に。……お前こそ何しに来た」
「任務が終わっても中々帰って来ない部下を迎えに、ね」


言いながら、リンドウは自分がさしている傘の中にソーマが入る位置へと移動する。
一つの傘に二人で入るには、どうしてもくっつかなくてはならなくて。
ちらりとそれを見て、ソーマは溜息を吐きだした。


「何で傘一本しか持って来ないんだ」
「それだけ濡れてれば今更だろう。……怪我してる可能性も考えて来たからな、お前を背負って車まで運ぶのに傘二本もあったら邪魔だろう」
「……怪我するような任務じゃないだろ」


そう言ったまま、ソーマは動く気配さえ見せない。
リンドウさす傘の中に入ったままで、ただじっと前を見つめたまま立ち尽くしていた。
傘をさされている事にさえ気付いていないかのように見える。
実際は気付いているのだろうけれど、何故なのか――こんなに近い距離に居るにも関わらず、その存在は何処か遠くにあるような錯覚を覚えていた。


「なあ、ソーマ。お前、いつまで此処に居るつもりだ?」
「……雨が止むまで」
「――は? お前、それまでずっとそのままで居るつもりだったのか」
「……ああ」
「全く。いくらお前でも風邪ひくぞ」
「……風邪なんかひくか」


反発するソーマに溜息を零しつつ、リンドウは手を伸ばす。


「せめてその上着は脱げ。寒くないのか?」
「……寒い」


はあ、と溜息を吐きだして、無理矢理ソーマの上着を剥ぎ取る。
これ以上水は吸えないとばかりに水分を吸いこんで重くなったそれを手に持って絞った。


「それ、返せ。寒い」
「着ても寒いだろ、これじゃあ」
「いいから、返せ。ないよりマシだ」
「帰って風呂に入るのが一番だと思うんだけどな」
「……雨が止んだらな」


リンドウが手に持っている上着を返せと、手を伸ばしたままのソーマをしばし見つめる。
リンドウの手から強引に上着を奪い取って、ソーマは片腕をそれに通した。
その状態で一瞬固まり、嫌そうに顔をしかめる。
諦めたように溜息を吐きだして上着を着込んだソーマを、リンドウは苦笑を浮かべて見ていた。

一つの傘の下で、ただ黙って降りしきる雨を見つめる。
触れあう場所から伝わる体温は、温かいとは言えなくて、そこからリンドウの体温が奪われていく気がした。


「なあ、ソーマ」
「なんだ」
「本当に雨が止むまでいるつもりか? 止みそうにないぞ、この雨」
「……」


無言でソーマはしばらくの間、降りしきる雨を睨むように眺める。
視線はそのままに、どこか思い詰めた様子で、けれど躊躇いがちに言葉を紡いだ。


「リンドウ」
「ん? なんだ」
「お前、お前は――何でもねえ。帰るぞ」


言い掛けて止めて、ソーマは帰ると告げる。
ポケットの中から鍵を取りだして、リンドウに向かって放り投げた。
そのまま装甲車の助手席へと乗り込む。
投げられた鍵を受け取って、リンドウは車に乗り込むソーマを、じっと眺めていた。
何を言いたかったのか。
思い詰めた様子だったのが気になる。
それに先程から感じてはいたが、どことなく様子が可笑しい。
何を思っていたのか、何を言いたかったのか。
帰ったら聞きだすか、と思いリンドウは運転席へと乗り込んだ。


アナグラへと戻り、びしょ濡れのソーマにぎょっとする仲間達を無視して、掃除のおばちゃんに「悪い」と頭を下げて足早にエレベーターに乗り込む。
リンドウとソーマの部屋がある階で降りて、部屋に向かって歩き出した。
自室へと入ろうとするソーマに、リンドウは声を掛ける。


「着替えたら俺の部屋に来るように」
「……何でだ」
「聞きたい事がある。……来なかったら迎えに行くからな」


心底嫌そうに舌打ちをして、それでも「分かった」と簡潔にソーマは返事をする。
その答えに対するリンドウの反応など見る事もなく、自室へと入って行った。
溜息を吐きだして、リンドウも自室へと向かう。
部屋に入りそのまま浴室へと向かった。

浴室から出て、冷蔵庫からビールを取りだしてソファに座る。
煙草に火を点けて、煙を吐き出して、やっと一息ついたという気になった。
任務が終わっても直ぐにソーマが帰って来ない事など、今までにも何度かあった。
そのまま勝手に他の場所のアラガミを倒しに行っていたり。
倒さなくてもいいアラガミを倒していたりと、様々だ。
だが、今日のように迎えに行った事は初めてだった。

不安を覚えたのは、その原因は――分かっている。
この手を放れて行くのではなくて、放さなくてはならないのだと言う事も。
それが分かっていながら、失くす不安に囚われたのだ。


「勝手だな」


思わず呟く。
我ながら勝手だと、思っていた。
煙草を咥えたまま、一度目を閉じる。
どちらにしろ、もう答えは先延ばしには出来ないのだ。
――答えはもう、出ている。
ただ、もう一つの答えは、簡単に出そうになかった。


「寝たんじゃないだろうな」


分かったと言った以上来ない事はないだろうが、それにしても遅いと思う。
途端に扉が開く音がして、不機嫌そうな顔のソーマが室内に入ってきた。

ちらりと、ソファに座って飲んでいるリンドウを見て、何故なのかソーマはほんの僅か躊躇う。
そうしてリンドウが座っているソファへとは足を向けずに、寝台に腰を下ろした。
そのまま言葉を発する事もなく、視線を落したまま床を見据えている。
やはり、様子が可笑しいとリンドウは思っていた。
いつもならばソーマは、躊躇うことなくソファへと座る。
こんな風にわざわざ距離を置くように寝台へと座った事など、初めてだった。
自ら手を放さなければならない日が、そう遠くないうちに来るかもしれないと思っている。
だからなのか、この距離が――不安を、恐怖を煽る。



「用があって呼んだんだろ? なんだ」


リンドウの思考を遮るように、ソーマの不機嫌そうな声が響いた。
それを切っ掛けに、リンドウは煙草を消して立ちあがる。
そのまま寝台へと近付いて来るリンドウを、ソーマはじっと睨むように見て告げた。


「来るな」
「そう言うなって」
「さっさと用件を言え」


睨む視線が、近付くなと告げる。
その中に、別の何かが見え隠れして――リンドウは距離を取ろうとするソーマの腕を掴み、見据えた。


「放せ」


腕を掴まれ、不機嫌さを露わにしながら言い放って、けれどソーマはその言葉を発した後視線を逸らす。
雨の中で感じた不安が、何故なのか拭えなかった。
今確かに此処にその存在があるのに、それが現実とは思えない。
今でもまだあの雨の中に捕われたままの様な気がして――掴まれる腕から温もりを感じる事が出来ても、漠然とした不安がつきまとう。
失くす、不安。
こんな思いをするくらいなら、最初から受け入れなければ良かったとさえ思ってしまう。
独りならば、こんな不安を抱え込む事などなかったのだから。
それなのに、腕を掴んでいる手を、振り解く事も出来ない。
相反する感情の翻弄されて、自分の感情さえも良く分からなくなっていた。
雨のせいなのか、それとも違う何かが原因なのか、それさえも分からない。
ただ何となく感じる不安は一体何処から来るのか――分からないままに、掴まれていない方の手を握り締める。
逸らしていた視線を戻して、腕を掴んだままのリンドウを睨むように見据えた。

真っ直ぐに睨むように見据えるソーマの視線を受け止めて、リンドウは微かに笑う。
腕は掴んだままで、視線を逸らさないまま見据えて、リンドウは告げた。


「さっき、何を言いたかったんだ?」
「……いつの話だ」
「迎えに行った時だ。何か言いかけて止めただろう」
「何でもねえって言っただろ」
「何でもないはずがないだろ」
「……」
「ソーマ」


黙り込んだソーマの名を呼び、言えと促す。
リンドウを睨むように見ていたソーマは、視線を外して――俯き加減で躊躇いがちに言葉を紡いだ。


「――お前は、居なくならない、よな」


小さな声で躊躇いがちに紡がれた言葉。
それにリンドウは言葉を返す事が出来なかった。
何故今、それを聞くのかと思う。
あのメールを受け取る前ならば、躊躇うことなく答えられたと言うのに。
何故、今なんだ――と。

気付けば、寝台の上にソーマを押し倒していた。
身体を重ねた事がない訳じゃない。
それでも、まさか今こんな事になるとは思っていなかったのだろう。
珍しく、驚いたように目を見開いたソーマが、リンドウを見上げていた。


「――っ、ん」


何か紡ごうとする唇を、自身の唇を重ねる事で封じる。
僅かに抵抗する素振りを見せるが、深くなる口付けに次第にそれも弱まっていく。
見開かれていた目は閉じられて、強張っていた身体からも力が抜けていった。

答えられなかった、今は、その問いに。
それでも、今は確かに此処にあるのだと、まだ今は此処に居ると伝えたかった。
リンドウ自身が実感したかったと言うのもある。
まだ今は手放さなくていいのだと、その存在は確かに此処にあるのだ、と。
実感したかった。



「……っく、……は、」


痛みと圧迫感に息が詰まる。
言えと強要するから言ったのに、何故こんなことになっているのか。
考える事を放棄したくなるような状況の中で、ソーマは思う。
拭えない不安はまだある。
それでも、今は確かにその存在が此処にあるのだと、実感していた。

与えられる快感も、向けられる想いも優しさも――全てを受け止める事が出来ない。
いつまで経っても慣れなくて、飲みこまれて溺れそうになる。
自分と言う存在を此処に繋ぎとめる為に、ソーマは覆いかぶさる男にしがみつく。
今自分を此処に繋ぎとめてくれる存在を、他に知らなかった。

沈み込んでいく意識に抗う事なく、ソーマは眠りへと落ちていく。
眠ってしまったソーマに布団を掛けてやって、リンドウは起こさないように気をつけながら寝台から下りた。
手早く服を身につけて、ソファへと向かって歩く。
沈み込むようにソファに座り込んで、小さく溜息を吐きだした。


「最低だな」


煙草に火を点けて、煙を吐き出し自嘲気味に呟く。
結局は、誤魔化しただけなのだ。
リンドウ自身、今此処にその存在があるのだと、まだ此処に在るのだと実感したかったのもある。
理由はそれだけではなくて、言葉に出来なかったのだ。
何故今なのか、その思いが消えない。
何故それを問うのが今なのか――。
あのメールを受け取る前ならば、躊躇うことなく答えられたと言うのに。

眠るソーマを、ソファに座ったまま眺める。
未だこういった行為に慣れないソーマは、大概最後には半ば意識を失うように眠りに落ちる。
けれど、そんな状態の時は夢を見る事もなく眠るようで――夢に魘される事もない。
だから、朝まで目を覚ます事はないだろう。

携帯端末を取りだして、二日程前に来たメールを眺める。
どうやら支部長が影で何かをしているようで、それを調べろという依頼だった。
これを受け取ってから、ずっと考えていた。
受けるべきか、断るべきか、と。
答えなど出ているのに考えたのは、抱え込んだ存在故だった。

最初は、放っておけないと思ったからだった。
それがいつの間にか違う感情へと変わっていて、それに気付きリンドウは覚悟したのだ。
ソーマの全てを抱え込むのならば、抱え込んだままずっと共に生き抜く、と。
覚悟した上で、ソーマに告げた。
ソーマはそういった感情を良く分かっていない。
それでも、嫌じゃないからと言う理由で受け入れては貰った。
とは言え、無自覚なだけでソーマがリンドウに対して同じ想いを持っている事は分かっている。
そうでなければ、ソーマの事だ、本気で抵抗するだろう。
子供の時ならば、その抵抗を簡単に封じる事も出来たが今はそうはいかない。
本気でソーマに抵抗されたら、リンドウでもどうする事も出来ないだろう。
けれど、今まで本気で抵抗された事はなかった。

煙草を咥えて深く吸い込む。
煙を吐き出しながら、溜息を零した。
先程のソーマの言葉が、頭から離れない。
覚悟をしてソーマの全てを抱え込んだ。
ソーマの事を考えるならば、この依頼は断るべきなのだろう。
受けたらきっと――後戻りは出来ない。
勘でしかないが、そう外れてはいないだろう。
抱え込んだはずのソーマを、手放さなければならない日が……来る。
それならば、出来るだけ早くと思っても、それも出来ない。
そんな事が簡単に出来るくらいなら、簡単に手放せるくらいなら、最初から手を伸ばしたりなどしない。
全てを抱え込んだりなど、しない。

――お前は、居なくならない、よな。
普段からは考えられない程に弱弱しく紡がれた言葉に、言葉を返す事が出来なかった。
雨のせいでそんな事を思ったのだろうか。
雨は外界を遮断し、孤独という檻に閉じ込める。
自分以外の誰も居ないような錯覚を、リンドウも覚えた事があった。
あの言葉はきっと、そのせいで出た言葉だろう。
けれどそれに答えられなかったのは――このメールのせいだ。
それでも、そのままにはしておけなくて……身体を繋げた。
今は、確かに此処に在るのだと、そう伝える為に。
今はまだ、その存在が此処に在ると実感する為に。
言葉に出来ない思いを伝える術を、他に知らなかった。


「エゴ、なんだろうな」


この依頼を受けるなら直ぐに手を放すべきだと分かっている。
それでも、手放したくなどなくて、その時が来るまではと思ってしまう。
それはエゴでしかないのかもしれない。
そうだとしても、手放すことなど出来そうになかった。

煙草の煙を吐きだして、上って行く煙を眺める。
それでも、この依頼も受けずにはいられないのだ。
我ながら面倒な性質だと思う。


『悪いな』


声に出さずに、そう告げる。
そうして、依頼を受けると返信した。

携帯端末を半ば放り投げるようにテーブルの上に置いて、自嘲気味な乾いた笑いを漏らす。
止まない雨はないと言う。
もしこの雨が止んだその時、まだこうして傍に在れたらその時は。
その時こそは――言葉を返そう。
居なくなったりしない、と。
ずっと共にある、と――。

短くなった煙草を灰皿へと押しつけて、リンドウはソファから立ちあがる。
寝台で眠っているソーマの隣に横になって、目を閉じる。
その時が来るまでは共に――そう思いながら眠りへと落ちていった。

全てが、動き出す。



END



2010/06/28up