■雨

相棒の鳴上以外誰もいない堂島家へと陽介が来たのは、30分程前だった。
菜々子ちゃんは、友人の家に遊びに行っているらしい。
堂島さんは、事件の捜査でしばらく家に帰ってないと言う事だった。
このところしばらく陽介達は、彼らの高校の教師、諸岡を殺害した犯人だと言われている久保美津雄を追って、TVの中の世界へ何度か行っている。
ポイドクエストと名付けられた、ゲーム風ダンジョンを探索中だ。
雨が続くのは来週半ばだし、相棒が言うには今のペースなら余裕で辿り着けるらしいから、心配はしていない。
だから今日は本当ならば、自称特別捜査隊の女性三人が作った弁当を持って、出掛けるはずだったのだ。
夏休み前にリセが仲間に加わり、クマもこちらの世界へと来た為、夏休み中に一日皆で遊ぼうと言う事になったのだ。
夏祭りにも皆で行く予定だが、それ以外でと言う事で今日を予定していた。
だが、天気予報は外れ、今日は生憎の雨。
普通なら残念に思うところだが、陽介は雨が降ってくれてほっとしていた。
女性三人の料理の腕前は、かなり酷い。
最初はバーベキューでもという話だったのに、いつの間にか女性三人が弁当を作ると言い出したのだ。
理由は分かっている。
今、陽介の隣で無表情のまま本をめくっている相棒の鳴上悠。
女性三人は皆、鳴上に好意を抱いているからだ。
だから、自分が作った弁当を食べて欲しいという気持ちは分かる。
だが、その気持ちに腕が伴っていなければどうにもならない。

本当ならば、天気予報が外れるのは困る。
雨が続けば霧が出て、TVの中に入れられてしまった者が自分の影に殺される事になる。
だから、常に天気予報を見ながら、彼らは行動しているのだから。
今日のように天気予報が外れるのは困る。
だが、この雨は今日一日だけのようで続かないし、何よりも雨が降った事で今日の予定は中止になったのだから、良しとする。
予定が中止になったのに陽介が鳴上の部屋に居るのには理由がある。
女性三人の弁当以外に食べるモノがない状態なのは流石に困ると思い、陽介は料理が出来る鳴上に頼むから弁当を作って来てくれと頼んだのだ。
いや、泣きついたと言っても良い。
溜息を吐き出し、呆れたような視線を陽介に向けながらも、相棒は弁当を作る事を承諾してくれたのだ。
前日の夜に準備をしたらしい鳴上から今朝、困るから弁当を食べに来いと連絡があった為、陽介は今鳴上の部屋に居る。
とは言え、先程から鳴上はソファに座り本を読んでいて、何もする事がない陽介は、暇だった。


「なあ、相棒」
「……なんだ?」
「何読んでんだ?」


問えば、今読んでいたページに栞を挟んで、表紙を見せてくれる。
そこには「弱虫先生、転職する」と言うタイトルがあった。
弱虫先生という名前くらいは陽介も聞いた事がある。
確か何冊か本が出ていたはずだ。
とは言え、読書があまり好きではない陽介は、読んだ事はないが。


「それ、面白いのか?」
「……まあ、それなりには」
「それなりなら、何で読んでるんだよ」
「寛容さが上がるから」
「はあ?」


時々こいつは訳の分からない事を言う。
何なんだ”寛容さが上がる”ってのは。
そう陽介が考えている間に、鳴上は再び読書を再開してしまう。
朝から降っている雨の音と、鳴上が本をめくる音だけしか聞こえない静かな部屋。
何もする事がなくてつまらないと言うのもあるが、こんな風に雨の音と本をめくる音しかしない部屋に居ると、気分が落ち込む。
何となく一人でこの部屋に取り残された気分になるのだ。
直ぐ隣には確かに相棒が居ると言うのに。

陽介はあまり一人になる事が好きではない。
特にあの日、好きだった先輩が殺された日以来尚更、一人で過ごすのが嫌になった。
どうしたって考えてしまう。
何故先輩が、と。
何故他の人じゃなかったのか、と。
そんな風に思う自分が嫌で、だけどもう、自分の中にあるそんな感情を否定する事も出来ない。
先輩が殺された事の手がかりを求めて相棒に頼んでTVの中に入ったあの日。
もう一人の自分とも言える、自分の影と対峙した。
都会から引っ越して来ると、稲羽は田舎で何もなくて。
”何か”が起こる事を確かに望んでいた。
アナウンサーがこの街で殺されて、あの影が言った程に極端な事を思った訳でもないが、”退屈でつまらない日常に終止符を打てる”と思った事は事実だ。
そんな事を思ってしまった後で好きだった先輩が殺されて――手がかりを求めて相棒と共にTVの中に入って。
自分達だけが解決出来るのだと言う優越感に似た思いも確かにあった。
でもだからこそ、罪悪感も半端なかった。
先輩を本当に好きだったからこそ、自分自身が嫌になる程に、罪悪感に囚われた。
悲しいと言う思いと罪悪感と。
雨の日は、そんな感情を呼び覚ます。
雨が続くと霧が出て、そして霧の翌日には自分の影に殺された人の死体が見つかる。
そうならないように、天城以降、TVの中に入れられた人達は救出してきたが。
それでも、雨と一連の事件はどうしても切り離せなくて。
だから雨の日は特に一人では居たくない。
最近は自分の家にはクマが居候しているから、滅多に一人になる事はない。
そうじゃなくても、雨が続く日までにTVの中に入れられた人を助けなければならないから、結構忙しくて、落ち込む暇もあまりない。
だけど今は――。

パタンと直ぐ隣で大きな音が聞こえて、陽介はびくりと身体を震わす。
その音のお陰で思考が中断された。
こんな音がするほど厚い本だったかと思い隣を見れば、呆れたように溜息を吐く相棒の姿があった。
伸びてきた手が、陽介の後頭部を捕らえて、ぐいっと引き寄せられる。
ただでさえ暑い夏休みの一日。
纏わりつくような暑さの中、何故こんなに密着しなければならないのかとぼんやりと思いながらも、その手から逃れる気にはなれなくて。
落ち込んでいた気分が伝わる温もりに癒されて行く。
ほっと安堵の息を吐き出した陽介の耳に、静かな鳴上の声が届く。


「俺は、知ってるから」


短いその言葉に、救われる。
陽介の影を見たのは、あの頃はまだあちらの世界にいたクマと、鳴上だけだ。
そして陽介の影を倒してくれたのは、鳴上だ。
その鳴上が言う”知っている”と言う言葉は重い。
普段皆に見せている陽介も、あの時の影も。
そして、雨の日には悲しさと罪悪感に囚われて身動き出来なくなる陽介も。
全てを知っているのは、鳴上だけだ。
こんな風に弱さを曝け出す事が出来るのも、鳴上の前だけなのだ。
都会に居た頃の友人にさえ見せた事はない。
鳴上ならば、ありのままの陽介を受け止めてくれる。
だから、こんな弱さを見せる事も出来る。
どんな陽介を見ても、変わらず傍に居てくれると分かるから。
だから、暑いと思いつつも、引き寄せられ密着したままの状態で陽介は言葉を紡いだ。


「ありがと、な」


その陽介の言葉に相棒から答えは返らない。
その代わり、陽介を引き寄せていた手が、ゆっくりと離れ、陽介は暑さから解放された。
外から聞こえていた激しい雨音が聞こえなくて、陽介は雨が止んだのかと思い窓へと視線を向ける。
途端に聞こえてきた声に、陽介は視線を戻した。


「陽介も本読めばいい、あそこにあるから」


そう言って相棒が指差した棚には確かに本が何冊もある。
それだけ言って再び本を読み始めた相棒をちらりと見て、陽介はソファから立ち上がった。
棚に近付き見れば、何とも統一感のないタイトルの本が並んでいる。
「素敵な漢」から始まる、漢シリーズ。
そして、今相棒が読んでいる、弱虫先生シリーズ。
THE柔道、THE外道は入門書だろうか。
そんなものまである。
外道の入門書ってどうなんだ? とは思うが、まあこれを読んだから外道になるって訳でもないだろうと見なかった振りをする。
それよりも、確か相棒はバスケ部じゃなかったか? 何で柔道なんだろうかと思いながら本のタイトルを目で追っていた陽介の視線が、ある一点でぴたりと止まる。
これは……菜々子ちゃんの本、だろうか。
まさかいくらなんでも高校生男子がこんな本は読まないだろう。
明らかに低年齢向けと思われる本が何冊かある。
その中でも一際目を引くタイトルが「魔女探偵ラブリーン」だ。
男子高校生が読むにはいくらなんでもキツイだろう、これは。
内容は分からないが、このタイトルの本を書店で手に取る勇気は陽介にはない。
そう思うからなのか、その本のタイトルから目が離せない。
動かなくなった陽介に気付いたのか、鳴上が本から顔を上げて声を掛ける。


「どうしたんだ? 陽介。何か気になる本でもあったか?」
「なあ、相棒。此処にある本って全部読んだのか?」
「一通りは、読んだ。途中までしか読んでないのもあるけどな」
「……」
「本当に、どうしたんだ?」


言いながら近付いてくる相棒に、これ、とその本を指差す。
ああ、と納得したように相棒が頷いた。


「長瀬から貰ったんだ、それ」
「はあ? 何だって長瀬がこんな本持ってんだよ」
「間違って買ったって言ってたな」


間違って買うタイトルか? これ。
と思っていれば、昔読んだ本のタイトルに似てたって言ってたと相棒が付け加える。
どう考えても低年齢の女の子向けだろうと思われるタイトルの本。
相棒が読むよりむしろ菜々子ちゃんが読んだ方が良いだろうと思われるそれを、本当に読んだのかという疑問がわく。


「本当に読んだのか、これ」
「一応。二度と読もうとは思わないな、流石に」
「だよなあ」
「気になるなら読んでみればいい」
「いや、遠慮する」
「読めば、寛容さと根気があがるぞ」


はあ、と陽介は溜息を吐く。
また訳の分からない事を言う相棒を無視することにした。
とは言え、そんな事をしても何とも思わないらしい相棒は、ソファに戻り再び読書を始めてしまう。
同じようにソファへと戻り、陽介は溜息を吐き出して告げた。


「なあ、俺って客だよな」
「……陽介、客だったのか」
「お前、俺を何だと思ってるんだよ」
「相棒?」
「何故疑問形なんだ?」
「客じゃない事だけは確か、だな」
「……」
「あと少しだけ待っててくれ、そしたら構ってやるから」
「誰も構ってくれなんて言ってねえって」


ムキになって否定する陽介を見て、鳴上は微かに笑う。
それを見て陽介もつられたように笑った。
鳴上のこんな笑みを見る事が出来るのは、恐らく陽介だけだろう。
リーダーなんてものを任されているせいもあるだろうが、鳴上が表情を変える事は滅多にない。
いつだって冷静で、だからこそ陽介も他の仲間も安心して着いて行ける。
仲間の誰もが鳴上に対して好意と憧れをもっているのだ。
そんな中で「特別」なのだと思えるのは、他の誰も知らない鳴上を見た時だろう。

じっと見つめる視線に気付いたのか、本に視線を落したままで、鳴上の手が陽介の髪を撫でる。
大人しくしていろと言わんばかりに、軽く頭を叩かれて、陽介は思わず不満気にその手を振り払った。
途端に鳴上が本から顔を上げて、楽しげに笑う。
ぱたんと静かにその本が閉じられて、先程まで鳴上を独占していたはずの本は端へと追いやられた。


「さてと、それじゃあ昼食にするか」
「待ってました!」
「雨、止んだみたいだな」


窓へと視線を向けた鳴上が、そう呟く。
そう言えば先程から雨の音が聞こえなくなっていた。
何を思ったのか鳴上が携帯電話を取り出して、電源を落とす。


「どうしたんだよ」
「晴れたから、今から行こうって誘いの電話が来そうな予感がするから」


その鳴上の言葉を聞いて、陽介も慌てた様子で携帯の電源を落とす。
顔を見合わせて微かに笑って、二人は昼食を摂る為に階段を下りた。


昼食を終えて鳴上の部屋に戻り、どのくらいの時間が経っただろうか。
外はすっかり茜色に染まっている。
陽介は、窓際に立ってその景色を眺めていた。
雨は悲しさと罪悪感を呼び覚ますけれど、独りじゃないからいつか乗り越えられる気がする。
止まない雨がないように、いつかはこの痛みも薄れるのだろう。
「夕飯も食べて行くだろ?」と問う鳴上に肯定の返事をして、陽介は茜色に染まった景色を眺めながら窓を開ける。
雨上がりのさわやかな風が、開けた窓から入って来た。
纏わりつくような暑さは、もうない。

窓の外を眺める陽介の隣に、鳴上が立つ気配がする。
しばらくの間、二人は並んで、茜色に染まった景色を眺めていた。

鳴上と陽介が携帯の電源を落とした後、やはり女性三人から電話があったらしく。
着信あり、の文字があった。
それ以外に完二からも電話が入っていて、その後会った時に、陽介は随分と完二に恨み言を言われる事になる。
どうやら連絡が取れた完二だけ、彼女達の弁当を食べる羽目になったらしい。
彼女達の料理の腕前は、やはり相変わらずらしく、陽介は雨と相棒に感謝だなと思っていた。

TVの中の世界で武器を手に戦う日々がまた始まる。
そんな非日常の日々が終わったら、雨の呪縛からも解放されるだろうかと思い、陽介は晴れ渡った空を見上げた。
まるでそんな陽介の内心を読んだかのように、隣にいる鳴上が軽く陽介の頭を叩く。
そうして歩き出す相棒の背を、陽介も追いかけた。



END



2011/06/30up