絶望の、その果てに

ずっと聞いてみたいと思っていた。
けれど、まだ聞けないとも思っていた。
でももうそろそろいいだろう。
あれからそれなりの時間が経った。
お陰で、当時抱えていた想いも、過去の事になった。
思い出して、何も思わない訳じゃないが、あの時のような痛みはもう感じない。
痛みも随分と和らいだ今ならば、聞いてもいいだろう。

「なあ、聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」

読んでいた本から顔を上げ、じっと陽介を見つめる灰色の眼。
あの頃に比べて更に大人びたその顔に浮かぶのは、疑問と僅かな心配。
表情が殆ど変わらないのはあの頃と一緒だが、それでも陽介は、その表情の僅かな変化を読み取ることが出来る。
あの頃以上に。

しとしとと降り続く冷たい雨。
夏も終わり秋へと移りつつあるこの時期は、雨が降れば肌寒い。
夏の雨と違い、冷たい雨だ。
雨は周りの音を消してしまう。
そして雨は――あの日々を思い出させる。

ああそうか、だから思い出したのか。
あの最後の戦いを。

「イザナミとの戦いの時、皆がお前を庇って飲み込まれて行ったあの時、何を思ってたんだ?」

絶望と言っていい状況だった。
戦力差は圧倒的で、勝てる確率なんて殆どない。
それでも諦める訳にはいかなかった。
負ける訳にもいかない。
負けたら、稲羽は、世界は、霧に飲み込まれてしまうだろう。
それを受け入れる訳にはいかない。
ならば、戦うしかないのだ。
神に挑むなんて無謀でしかないが、やるしかなかった。

あの状況でイザナミに勝てる可能性があるのは、いくつものペルソナを付け替えて戦える鳴上だけだろう。
まあ実際あの瞬間はそんなことを思う暇もなかったが。

鳴上に向かって放たれた攻撃。
突き飛ばし、飲み込まれたことを後悔したことはないが、もし自分があの鳴上の立場だったなら。
絶望し戦えないだろうと、そう思っていた。
全てを背負わせてしまった事に罪悪感を覚えてもいた。
世界の命運と仲間の命を背負わせてしまった。
その重さに押しつぶされても仕方がない状況だったにも関わらず、鳴上は戦いイザナミを退けた。
だから聞いてみたかったのだ。
あの時何を思っていたのか。
自分があの時の鳴上の立場なら、戦えないと思うからこそ聞きたかったのだ。


「何も」
「は?」

予想もしない言葉が返ってきて、一瞬何を言われたのか理解出来なかった。

「何も思ってなかった」
「……目の前で仲間が飲み込まれて行ったのに、か?」
「信じてたからな」
「……」
「俺の仲間は、あの程度でやられたりしない」
「……」

どこか得意げに言う鳴上を見て、陽介は笑いだしそうになる。
まあ確かにあの時の鳴上を思い出して見れば、普段と変わらず無表情だった。

信じていた。――その言葉が嬉しくて、声を上げて笑いたくなる。
陽介だって信じていた。
鳴上ならばきっと勝ってくれる、と。
だからこそ、全てを託した。
ずっと抱えていた罪悪感が軽くなる気がする。
僅かな言葉で陽介を救上げてくれるのは、あの頃と変わらない。
改めてあの日々を乗り越えて得たモノを誇らしく思う。
自分自身も仲間も、そして今隣に居る存在も。

そんなことで潰れてしまうような男ではなかったのだ、鳴上悠は。
一番近くでずっと見ていて、知っていたはずだ。
仲間の全てを背負い、仲間を導き、ただ真っ直ぐ前を見て進んで行ったその背を。
だからこそ得られた結果だ。
そしてそれは、自分たちの存在があったからこそ、でもある。
そのくらいのことは、今は陽介だって分かっている。
誰か一人欠けても、あの結果は得られなかっただろうということは。

「そうだよな、お前ってそういう奴だったよな」
「今更だろう。だがまあ、皆が居たから掴めた結果だ」

先ほど陽介が思った事を鳴上が言う。
それは、あの時一緒に戦った仲間の事だけを言っている訳ではない。
あの場に居なかった者たちも含め、誰が欠けても、あの結果は掴めなかっただろう。
絶望とも言える状況を越えられたのは、人と人との繋がりがあったから。
その繋がりを信じられたから。
あの時得た絆は、今でも健在だ。
あの日々の果てに得た、大切なモノ。
これがあればこの先何があってもきっと乗り越えていける。

明けない夜はないと言うが、それを実感したのはあの日々を終えた後だった。
ただ只管、必死に走っていて、その時には気づかなかった。
あの時は、ただ必死に前を見て進む以外、出来なかった。
先頭に立ち導いてくれた背を、追いかける事以外出来なかったのだ。
大切な人を失い、見たくない自分と向き合い――これ以上に最悪だと思えることはもうないだろうと思った。
それなのに、――。

霧の中に稲羽が沈むと聞いた瞬間は、目の前が真っ暗になった。
今この場に居ない家族や友人やクラスメイトが皆、シャドウになってしまう。
人が望んだからそうなるのだと言われても、納得など出来るはずがなかった。
何も考えられなくて――けれど、思考を停止させている暇さえなかった。
それは受け入れられないと、分かっていたのはただそれだけだった。
だから抗うしかなかったのだ。
勝ち目のない戦いでも、諦める訳にはいかなかった。
絶望の中に沈むわけにはいかなかったのだ。
その先に何があるのかなんて、あの時は分からなかった。
けれど、あの絶望の果てに――今のこの日々を手にした。
陽介達がこの手で掴んだものだ。
絶対に手放せない、大切なモノ。

そう言えば、あの日々の中、最後の戦いの時でさえ冷静だった鳴上が唯一取り乱したことがあった。
取り乱すのも分かる状況ではあったが、後にも先にもあんな鳴上を見たのはあの時だけだ。

「俺にとっては、菜々子が攫われた時が一番、堪えた、な」

ぽつりと呟くように鳴上は言う。
まさに今陽介が思ったのもそれだった。
鳴上が取り乱したのは、菜々子が攫われテレビの中に入れられたあの時だけだ。

――菜々子! 

そう必死に叫ぶ鳴上を、あの時初めて見た。
生田目に囚われていた菜々子を見た瞬間の光景だ。
あれからずっと共にあるが、あんな鳴上を見たのは、一度だけだった。

「まあだから、最後の戦いは俺にとってはそれほどでもなかったな。陽介達が強いことは知っていたから。けれど菜々子は……」

未だあの時の痛みは薄れていないのか、それとも鮮明に思い出したのかは分からないが。
鳴上の表情が痛そうに歪む。
こんな表情も、あの日々の中でさえ殆ど見たことがなかった。

確かに、菜々子は戦う力をもっていなかったし、幼かった。
実際助けた後も長い間入院していたし、一度彼女の心臓は、止まっているから。
そう、あれは本当に――言葉で表すことなど出来ない程の、絶望だった。
自分よりも幼い女の子。
相棒の、大切な妹。
そんな存在の命が目の前で消えたあの瞬間の事は、絶望としか言いようがない。
よりによって何故、そんな言葉しか浮かばなかった。

そうか、そうだなと思う。
確かにあの戦いに負けたら最終的に世界が霧に沈む。
けれど、それは余りにも大きすぎて、実感がなかったのもまた、本当だ。
だからこそ抗えたし、戦えた。
その重さを実感出来ていたら、あの場に立ち竦んで動けなかったかもしれない。
それよりも目の前で一度失われた命の方が余程――。
それが大切な人であれば尚更だ。
陽介だってもし目の前で先輩が――、考えただけで目の前が暗くなる。
今ここに、大切な存在があるにも関わらずそうなのだから、あの時の鳴上はどれ程だったか。
想像することを拒否したくなる。
今でも鳴上と菜々子は仲の良い兄妹だ。
携帯電話を菜々子が入手してからは、時々兄妹で長電話をしている光景を見る。
いや、時々ではないか、と陽介は思わず遠い目になる。
割としょっちゅう、この兄妹は長電話をしていた。
あまりの仲の良さに、分かってはいても嫉妬の感情を覚えるほどには。

まあ、それはいい。
考え出したらキリがないのだから。
それよりも。

『陽介達が強いことは知っていたから』

当たり前のように平然と言われた言葉が嬉しい。
あの頃は、鳴上の背を追いかけることに必死で、自分が強いなんて思った事はなかった。
自分の相棒があまりにも凄すぎて、その隣があまりにも遠くて。
けれど鳴上は、認めていてくれたんだなと思う。
いや、違う。
知ってはいた、鳴上が自分を、仲間を認めていてくれたことは。
それはきっと、仲間達も一緒だろう。
自分たちの前を歩くその背を必死に追いかけながら、向けられる信頼に応えたいと思っていた。
だからこそ、もっと強く、そう思っていたのだ。

懐かしいと改めて思う。
あの日々があったからこそ、今がある。
あの日々を乗り越えたからこそ、今こうして隣に立てている。
自分に自信がないのは、あの頃とそれ程変わらないが、それでも、隣に居る存在が自分を認め信頼してくれている事は分かっている。
言葉にすることは殆どないが、向けられる絶対的な信頼に、応えたい。
これからも、ずっと。



END



220/12/20up : 紅希