■白い花

 「なぁ、久保ちゃん。あれ何て花?」

 買い物をしている途中、時任が花を指差して立ち止まった。
 白い花。独特な葉の形。
 見覚えはある気がするけど、生憎、名前までは知らない花だった。
 スーパーで生鮮品のひとつのように飾られているから、品名表示も無い。
 バーコードにはそっけなく「花木」とだけ書かれていた。

 「さぁ? その花の名前がどうかした?」
 「いや、そういう訳じゃないんだけど。」

 うーん、と首を傾げる時任。
 何かを思い出そうとするような表情を、曇った目で見遣る。
 時任には昔の記憶がない。
 どこに住んでいて、何を食べていて、どんな知り合いがいたのか。
 本当に日常生活の断片さえ覚えていないようだった。
 だけど時々、こんな風に遠い目をして何かを思い出そうとする時がある。
 ま、いつも何かを思い出す前に飽きてやめてしまうけど。

 「ふーん……気になるなら、買って行こうか?」

 今日は時任が飽きるより先に、その思考を遮った。
 1束500円の花束をひとつ青いバケツから引き抜いて、買い物かごに入れる。
 時任は少し驚いたような顔をして、後をついて来た。

 「花なんか買ってどうするんだよ。」
 「どうするって、普通に飾れば良いんじゃない?」
 「…花瓶とかあんのか、久保ちゃんの部屋。」

 要るなんて言ってねーのによ、と時任はふてくされたように言う。
 けれど『他に買うものは?』と問うと欲しいものを探しに駆けて行った。
 その背を見送りながら、今かごに入れたばかりの白い花を見下ろす。
 ―――無性に煙草が吸いたくなった。

 時任が見ていた花を買ってやりたくなった訳じゃない。
 まして、それで記憶が戻るように手助けしようと思った訳でもない。
 むしろ邪魔をしたくなったのかもしれないと自覚すると、胸がざわめいた。

 倒れているところを拾ったばかりなら、早く思い出せば良いと思ったかもしれない。
 捨て猫を拾うだけでも持て余しそうな気がするのに、まして人では。
 名前も他の記憶も無く、人を獣化させ死に至らしめるWAに関わっている。
 それだけで十分、手放す理由にはなったはずだ。
 拾った当時、葛西さんからも釘を刺されている。
 なのに、まだここに居る。
 名前まで付けて、その存在を受け入れている。
 失くした記憶を思い出さなければ良いのにと思ってさえいる。

 記憶が戻れば、在るべき場所に帰っていくかもしれない。
 そのきっかけになるかもしれない白い花が邪魔だと、一瞬でも思った。
 そこから時任を取り返さなければと、確実に考えた。
 この感情が何なのか花の名前よりも気になるけれど、知りたくも無い。
 時任の記憶と同じように、ずっと知らないまま、面と向かわずに居られれば良いと思う。

 「久保ちゃーん! これ買っても良い?」

 煙草の紫煙を吐き出すように深く息を吐き出した時、時任の呼ぶ声が聞こえた。
 後を追いかけているつもりだったのに、時任は後ろから戻って来ていた。
 最近ハマってるスナック菓子じゃなくて、花瓶を探しに行ったのね。
 見つけられなかったらしく、代わりに持ってきた細長い形のグラスを見て柔らかい笑いが漏れた。

 少しの間ドロドロと胸にわだかまった思いが、笑った瞬間に流れて行く。
 拾った猫に名前を与えて、この場所に縛ったのは俺の方だったけれど―――
 名前を呼ばれる事で、この場所に縛られているのは時任よりもむしろ俺の方。
 ………呼ばれる名前があることで、生き繋いでいるのは俺の方………。

 「後で検索してみる?」
 「は? 何を?」
 「花の名前。」

 買い物袋から白い花を覗かせて部屋に帰る道を並んで歩く。
 思い出せない記憶なら、新しい思い出を作って塗り替えていけばいい。
 だから、帰ったら花の名前を調べようと思った。
 記憶喪失者が記憶を思い出した時、失くしていた間にあった出来事を忘れる事があるんだって。
 昔の事を思い出した拍子に、時任は俺と過ごしていた間の記憶を全部忘れるかもしれない。

 ネットで検索して覚えた花の名前も。
 リビングに飾った白い花と、そのために買った細長いグラスの事も。

 それでも良いと嘯いて煙草を咥えた。
 時任が『久保ちゃん』と名を呼び続ける。―――その短い小さな幸いが続く事を祈って。



END



2011/03/16up : 春宵