■手を繋いで

 電車とバスを乗り継いで、潮の匂いがする海辺へと降り立つ。
 日曜だからもっと混んでいるかとも思ったけれど、時期外れの海に来る人は案外少ないようだ。

 今度の日曜に一緒にどこかに行かないか、と誘ったのは俺の方。
 海がいいと決めたのは彼女―――日野だ。
 湿気や塩気が楽器に影響するかもしれないと言って、俺も日野もバイオリンさえ持って来ていない。
 正直、俺と出かけるのに、彼女が音楽と全く関わりの無い場所を選んだのは意外だった。

 それは、こちらが彼女に音楽以外の関わりを求めていないということではなくて。
 その………。
 彼女にとって、“月森蓮”はただのバイオリニストにすぎないだろうと思っていたからだ。
 目的地は音楽と関係なくても、結局、電車やバスの中で話すのは、バイオリンのことだった。
 最近、どんな曲を練習しているのか。
 苦手としている技術は何か。
 それならこの曲を練習してみればいいとか、そんなことばかり。

 目的地に着いてからは、何となく海辺の歩道を歩いてはいるものの、無言がちだ。
 言葉を交わすよりも、波の音を聞いている時間の方が確実に長い。

 ………退屈、ではないだろうか。

 ちらりと隣を歩く日野に視線を向けた。
 俺が立つ方とは反対側、波打ち際の方を向いてゆっくりと歩いている。
 ただ海を眺めているんだろうか。
 話題を探しているんだろうか。
 その表情は窺い知れない。

 足取りは軽いのか、重いのか。
 それで感情を窺おうとして、普段、彼女が歩く速さを思い出そうとしてみる。
 けれど、エントランスや森の広場を小走りに駆けるところしか思い浮かばなかった。

 「ふぅ」

 ため息をつきながら、つくづく思う。
 こんな風に二人きりで出かけるようになっても、音楽科の俺が普通科の彼女を見る機会は少ない。
 音楽を離れようとしてみたところで、結局のところ、俺と彼女を繋ぐのはバイオリンだけだ。
 近づいたように思えた距離は、まだきっと遙か遠い。

 「どうかしたの?」

 ため息をついたのが聞こえたんだろう。
 日野がこちらを振り返った。
 不安そうな表情は、自信なさげにバイオリンを練習していたいつかの彼女によく似ている。
 それでもあの頃と違って見えるのは、俺の見る目が変わっているからだろう。
 彼女が不安を感じているのなら拭い去りたいと、確かに思っているのだから。

 「手持ち無沙汰だと思っていた。」
 「手持ち無沙汰?」
 「バイオリンがここには無いから。」

 せめて曲でも演奏して聞かせられるのなら、不自然な間も埋められるのに。
 言葉を交わすよりも上手く、話題を探すよりも早く、彼女の気を紛らせられるのに。
 苦笑いする俺の前に、彼女がそっと手を差し出す。

 「?」

 意図が分からず、その手を見つめる俺に日野は小さい声で『手持ち無沙汰なら手を繋ごう』と言った。
 ………たぶん、俺はひどく驚いた表情で彼女を見つめ返したと思う。
 彼女はまた不安そうな表情に戻って、手を差し出したままでいようか引っ込めようか考えているようだ。

 「演奏家はいつも手を万全の状態にするように気を使っているものだ。今まで、俺は他人に手を触らせることも極力避けてきた。」
 
 この状況で、また音楽の理屈っぽいことが口をつく。
 日野はよくも悪くも感情が思い切り顔に出る。
 しゅん、と沈んだのがすぐに分かった。
 だからなるべく急いで言葉を続ける。

 「………だから、これは、特別……ということだから。」

 どうにか繕ってそれだけを口にして、今にも引っ込められそうだった日野の手を捕まえた。
 我ながら消え入るような声だったと思う。
 顔もずいぶん赤くなっているらしく、猛烈に熱い。
 けれど、それ以上に繋いだ手のひらが熱く感じられる。

 『他人に手を触らせない』と言ったのは、方便じゃなくて本当の事だ。
 もう長いこと、他人の手の温度なんて感じたことは無かった。
 だから彼女の手のぬくもりに新鮮さと距離の近さを強く感じられる。

 間を埋める音楽さえも、今は要らない。
 手を繋いで歩く、そのことがバイオリンで結んだ絆以上に、2人を繋いでいるから。



END



2011/10/02up : 春宵