■うた

 校舎内の喧騒をぬけて森の広場に向かう。
 在学中も何かにつけて息抜きに来ていた気がするが、今でもつい来てしまう。
 ……もっとも、今は厄介事から身を遠ざけるために来る事が多いんだが。
 厄介事をもたらすのは、何かと気にかけてくれる分だけ面倒な校長が一番。
 その次が女子の集団だ。
 これが男子なら音楽一本槍で至極真面目に音楽を学ぼうとして来るから、それはそれで面倒なんだが。
 音楽以外のことでアレコレ聞きたがる女子は、それ以上に対応に困る。

 『先生は、歌と恋人、どっちが大事ですか?』

 授業を終えた後、質問があると言う女子たちに呼び止められて聞かれた事がそれだ。
 敬遠されるよりは慕われた方が良いんだろうが、何を求めて教師にそんな質問をするのか。
 はぁ!?……思わず漏れそうになった呆れた呻き声をどうにか飲み込んだだけ褒めて欲しいね、俺は。 

 『…あれ? “でしたか?”って聞くのが正しいのかな。』
 『え〜、分かんないよ。進行形かもしれないし!』

 ……きゃぁぁぁ、じゃない。勘弁してくれ。
 さらにダメ押しをされて、今度は飲み込まずにため息をついた。
 若人の率直さは、その時代を過ぎた俺たちにとっては微笑ましく眩しいものだ。
 けど、それを受け容れてやれるかどうかは、また別の話。
 大人なら、教師なら受け容れろという論もあるだろうが、俺はそんなに人が善く出来ていない。
 チクリチクリと脈打つように痛む胸に顔をしかめた。
 歌も彼女も―――それが過去なのだと突き付けられる事も、俺にとってはまだ痛む傷だと思い知る。

 『さぁな。……俺の昔話なんか聞いても仕方ないだろ。若人は若人らしく、今を生きろ。今を。』

 尤もらしく煙に巻いて、彼女たちの輪から抜け出した。
 そして校舎の中で再び捕まらないように、自分の中のわだかまりにも囚われないように、外に出た。
 散歩をするように何気なく歩いて、自然と向かった先がこの森の広場だったという訳だ。


 「まったく、女子って生き物はいつの時代でも変わらんね。」

 やれやれと頭に手を当てながら呟く。
 在学中ならともかく、歳が離れた今では彼女たちに到底太刀打ちできる気がしない。
 どっと疲れを感じて広場にある石のベンチに腰をかけた。

 「……なぅ……」

 すると、ぼやいた声を聞きつけたのか茂みから猫のうめが姿を現す。
 どこか不満そうに喉の奥で鳴くのは『あたしも女子よ、悪かったわね』とでも言っているのだろうか。
 慣れた様子で膝にちょこんと飛び乗ったうめに、笑いを含みながら声をかけた。

 「うめは女子って歳でも無いだろう…て、あーこら、爪を立てるなって。」

 太腿にうめの爪が食い込むのを感じて、慌てて仰向けに抱き直す。
 ―――前言撤回。
 “女子”に限らず、ヒトに限らず、“女性”にはとても敵う気がしない。
 まだ喉の奥で鳴いているうめの頭を撫でてやりながら、生徒の問いを思い出す。
 『先生は、歌と恋人、どっちが大事ですか?』
 答えを探すように、恋人という存在が居た当時の記憶を紐解いた。


 イタリアでオペラ歌手として歌を歌っていた頃。
 これが一世一代の恋だと思える相手と付き合っていた。
 生徒と同じ問いを、彼女も何度となく口にした事を思い出す。
 『歌と私とどっちが大事なの?』…と、試すように。甘えるように。

 ………君だ、と答えたかどうかは置いておくとして。

 女性は、仕事と恋を別々のものだと思って優劣を付けようとする。
 けれど男はもっと単純だ。
 彼女が大事だから、格好良く見せたくて仕事も上手くやろうと頑張ってしまう。
 失敗するのを彼女に見せたくないから、隠れて練習をする。熱心に技術を上げる。
 歌に伝えたい想いを乗せるから―――その想いが本当だから、観客の心を惹きつける。

 敢えて優劣を付けるとするなら、答えなんて決まっている。
 なのに、それを口にすれば取って付けたようで、口にしなければ誤解される。
 自分以外の心までつかむ恋人に彼女は疑念を募らせた。
 彼女への想いを歌に乗せて人の心をつかんだ歌うたいは、次々に公演に追われる。
 代わりに想いがすれ違い、去ろうとする彼女の背を追う事も出来なかった。
 そうして、酷使した喉まで壊して、歌うたいですら無くなった。


 「なぁ、うめよぉ。…質問したいのは、こっちだよなぁ。」

 あれから数年経っているのに、まだ消えない胸の痛み。
 そこから目を逸らそうとして歌に没頭するにも、壊れたままの喉は歌を紡がない。
 歌うたいの歌に、あの頃と同じような想いは乗せられない。
 『どうしたら良いのか、お前なら答えを知っているか?』とうめに尋ねてみる。
 うめは興味がない様子でプイと顔を逸らせると、膝から降りて歩き去ってしまった。

 「愚痴っぽい男は嫌い、ってか。」

 うめの背を見送りながら苦笑する。
 その視線の先に、一人の生徒が楽器の練習を始めようとする姿が映った。
 普通科の制服で、ヴァイオリン持ち。
 近づいて確かめるまでも無く、リリに選ばれたコンクール参加者だった。
 参加が決まって初めてヴァイオリンを手にした、という噂は本当なのか。
 真偽はともかく、初心者だというのは専門外の俺でも分かる。

 ぎこちない手つきで弦を調律してヴァイオリンを奏で始める。
 ……曲らしきものを、というかまだ“音”としか呼べない単音の連続を、出し始める。
 基本中の基本どころか準備段階でも悪戦苦闘するその姿が、何故か微笑ましい。
 曲に何を籠めるのか、どうすれば人の―――彼女の心を掴むのか。
 そんな小難しい事を考えずに、ただ楽器に向かい音を奏でようとする。
 そこに何かを見出しかけて、けれど何なのか掴めずに、すっと背を向ける。

 ふと、“現役”時代に好んで歌った歌曲を聴きたくなった。
 歌を歌えなくなって以来、自分が関わった曲を聴く事は避けるようになっていた。
 積極的に聴きたいと思うなんて、まして思い入れのある曲に触れようとするなんて、無かった事だ。
 そんな自分の心の動きが訝しくて、顔をしかめる。
 だが、一度聴きたいと思ってしまえば聴かずに居られないような気がしてきた。
 あまりメジャーではない曲だが、準備室を漁ればCDくらい出て来るだろう。

 「さて、そろそろほとぼりも冷めてる頃かねぇ。」

 教師を困らせた“女子”たちが練習室に籠っている事を祈って、校舎に向かって足早に歩き始めた。



END



2011/03/31up : 春宵