■手紙
何か言いたそうにしながら、けれど何も言わずにただじっとイエスを見つめたまま立ち尽くしている。
一体なんなんだと思い、溜息を吐き出してイエスは問う。
「何か用があって来たんだろ? さっさと言え」
「うん」
そう言ったきりチヒロはやはり何も言わない。
本当に一体何なんだと、イエスは再び溜息を吐き出した。
会いたいから来た、という訳じゃない事くらいは、チヒロの様子から分かる。
そう言ってからかってやるのもいいが、そんな雰囲気でもない。
重苦しい沈黙の中、再び溜息を吐き出したくなるのをどうにか堪える。
やっと言う気になったのか、チヒロがイエスに白い封筒を差し出しながら、言葉を紡ぎ始めた。
「あのね、これ……悠斗くんから預かったんだけど……その、恭平さんが残したもの、らしくて。あの研究所を調べていたら出てきたって……」
差し出されたそれを受け取って見れば、表には「イエスへ」とだけ書かれていて、裏には「来栖恭平」とあった。
この手紙、俺に届ける気ねぇだろ、と思う。
これだけでは、恭平とイエスを知っている奴がこれを見つけるか、偶然イエス自身が見つけるかしなければ、イエスのところには届かないだろう。
たまたま今回は、恭平とイエスの事を多少知る人物がこれを見つけたから届いたが。
それでも、あの事件からすでに半年が過ぎてる今になってやっと、だが。
「じゃあ、私帰るね」
「……送ってく」
そう言って、立ち上がりかけたイエスを、チヒロが制して告げる。
「ううん、大丈夫。まだ、明るいから。……あのね、イエスくん。何かあったら電話してね。何時でもいいから」
「……分かった」
心配そうに見つめるチヒロを見て、それだけを告げる。
じっとしばらく心配そうにイエスを見ていたチヒロが、帰って行くのを見送る。
犬にまで挨拶して帰って行く様子を、ただ黙ってじっと見ていた。
その姿が完全になくなるのを見て、溜息を吐き出す。
恭平絡みの事となると、チヒロはいつも心配そうにする。
鬱陶しいとは思わないが、それに対してどうすればいいのかが分からない。
受け取った手紙をじっと見つめて、開封する。
飾り気のない白い便箋に、それ程多くはない文章が綴られていた。
『この手紙が、イエスに届く可能性は限りなく低いと思う。
それでもこれが届いたのなら、凄い事だと思う。
伝えたいことはそれ程多くはないんだ。
一番伝えたいのは、ありがとう、それだけだ。
本当に、ありがとう。
心残りがあるとしたら、お前の傍に、お前が本当に大切だと思う存在があるところを、見れなかった事、かな。
今この手紙を見ているイエスの隣に、そういう存在があることを願って。
イエス、本当にありがとう。』
――書き終えて、恭平は息を吐き出す。
何か言い残した事はあるかと問われ、何もないと答えたけれど、少しだけ時間をくれとお願いし、これを書いた。
この手紙がイエスに届く可能性は限りなく低い。
手紙の冒頭にも書いた通り、だ。
それでも、書きたかった。
ただの自己満足だ。届いても届かなくてもどちらでもいい。
もしもこれで届いたのなら、それは本当に凄いことだと思う。
縁があるって事なんだろう。
イエスの存在は、恭平にとっては救いだった。
自分が未来を閉ざしてしまった少女の兄と、イエスは良く似ていた。
外見が、じゃない。
纏っていた雰囲気が本当に良く似ていたのだ。
だから、イエスに対してしていたことは、あの少女と少女の兄に出来なかった贖罪だ。
イエスの為じゃない。自分の為だ。
イエスの喧嘩の頻度が減り、自分に対して少なからず心を開いてくれているのを感じ、本当に嬉しかった。
少しではあるが、罪を償えた気もしたのだ。
それが偽りだと、気付くまでは。
こんな気持ちのままイエスの傍に居るのは、イエスに対してもあの少女の兄に対しても失礼なことだ。
だがそれでも、イエスの存在によって自分は確かに救われた。
その気持ちを、何らかの形で残しておきたかったのかもしれない。
恐らくはもう二度と会えないだろうから。
弟のように思っていたのは確かだ。
孤独を抱えるイエスの傍にずっと居ようと思ったのも本当だ。
だがそれでも、気付いてしまった以上、このままでは居られない。
罪を償う方法はなくて、けれどこの罪をずっと背負っていくのももう限界だった。
ならば、この身が世界を救う役に立つなら、差し出そうと思った。
その気持ちにも偽りはない。
ただ気がかりなのは、イエスの事を理解し、その孤独に寄り添ってくれる存在が居ない事。
いつの日かそんな存在が現れるとは思うが、それを見ることが出来ないのが心残りだ。
彼に寄り添ってくれる存在が、可愛い女の子だといいな、なんて思う。
万が一この手紙がイエスに届いた時には、そんな存在が隣にあると良いと思う。
そう心の底から願っていた。
飾り気のない便箋に飾り気のない封筒。
『イエスへ』とだけ書いて『来栖恭平』と自分の名を書く。
そうして無造作に、あまり使われていなそうな棚の本の間に挟んだ。
終焉へと向かう。
自我がなくなるというのがどういうものなのかは分からないが、来栖恭平と言う存在はなくなると思っていいのだろう。
それでも何故か、さようなら、という言葉を手紙に書くことは出来なかった。――
読み終えて、イエスは思わずその手紙を握りつぶす。
感情のままに床に投げ捨てようとして、けれど思い留まる。
怒りなのか悲しみなのか、良く分からない感情が渦巻く。
何もかも壊したら、この感情は収まるのか。
そう思い立ち上がった途端に浮かんだ顔に、言葉に、足は止まる。
仕方なく再びソファへと座った。
喧嘩をするなとか、暴れるなとか、そんな事を煩いくらいに言う女の顔が浮かび。
けれどそれが不快じゃないのだから、不思議なものだと思う。
大切に思う存在、か。
見たいならいくらでも見れるというのに。
何故あいつは居ないのか。
何故かなんて分かってる。俺がこの手で殺したのだから。
だから、居るはずがない。
分かっているが、それでも思う。
何故居ないのか、と。
分かっている。
現実は何も変わらない。
もう一度同じ事が起こったとしても、俺もあいつも同じ選択をする。
だから、恭平が見たかったという光景を見る事は、絶対にないのだ。
届く可能性が限りなく低い手紙なんか残して、どういうつもりだったのか。
「……馬鹿、だな。本当に」
そう思う。
それ以外、何も言葉が出てこなかった。
握りつぶした手紙をたたみ、無造作にポケットに突っ込む。
そうして息を吐き出して、立ち上がった。
そのまま
見れば、何処に何をしに行くのか問われる。
意図する事が分かり、溜息を吐き出し告げた。
「暴れねぇよ。だから、ついてくんな」
それだけ言えば、分かったのか、渋々と言った感じではあるが、犬はその場に座り込む。
それを見て、イエスは
今は、一人になりたかった。
行先を特に考えずに適当に歩く。
辿り着いたのは、公園だった。
恭平とここで何度も会ったなと思う。
恭平に連れてこられたというのが正しいが。
喧嘩しているイエスを止めて、ここに引っ張ってくるのが常だった。
喧嘩をするなと何度も何度も言われて、けれどなくなる事はなかった。
恭平が傍に居る間に、随分と喧嘩自体は減ったが、今ほどではない。
今のイエスを見たら、あいつは何と言うだろうか。
そんなことを思い、苦笑する。
浮かぶのは、他愛のない事ばかりで、けれど確実に傍にあったモノ。
そしてもう二度と、戻らないモノ。
行き場のない感情を抱えたまま、ただただ立ち尽くす。
茜色だった空に月が登っても、ただじっと。
電話に出ないイエスを心配したチヒロが、犬を伴って探しに来るまで、ただただその場に立ち尽くしていた。
行き場のない感情を、誰にも見えない傷痕を、抱えたまま歩いていく。
この先も、ずっと。
END
2013/01/26up : 紅希