■おやすみ
「ただいま」と言えば「おかえり」と返ってきて。
寝る時には「おやすみ」と言う相手がいる。
久しぶりに真っ暗な部屋へと帰り、いつの間にかそれが当たり前になっていたことに気づき苦笑する。
部屋へと入り、電気をつけて、そういえば稲羽に居た一年間も、そうだったなと思い出す。
両親は悠が子供の頃から仕事をしていて、悠が家に帰る時間に家に居たことはまずなかった。
悠が小さい間は、夜寝る前には帰ってきていたけれど、ある程度の年齢になると、夜寝る前に家に自分以外の誰かが居る事はなかった。
だから、稲羽の堂島家での生活には、最初は戸惑った。
悠が家に帰ると菜々子が居て、「おかえり」と言ってくれる。
それに慣れなくて、けれどいつの間にかそれが当たり前になっていた。
こっちに帰って来てしばらくは、「おかえり」と言ってくれる存在がないことが寂しかったなと思い出す。
そして今もまた。
少し前から悠は、陽介と一緒に暮らしていた。
互いの会社にそれなりに近い場所に部屋を借り、世間的にはルームシェアという事にして、一緒に暮らしている。
ここに至るまでには随分と遠回りした。
自分の中にある想いに気付かない振りをして、別の誰かと、そんな事を思っていたが無理だったのだ。
そうして今は、こうして共に在る。
とは言え、今ここに陽介は居ない。
ふぅ、と溜息を吐き出して、ソファに沈み込む。
いつもなら、ここに帰って来るのは陽介の方が先だった。
今日たまたま悠が早く帰って来たわけでもない。
悠の帰りはいつも通りだ。
ちらりと時計を見て、もう一度溜息を吐き出す。
「分かってはいるんだけどな」
思わず呟く。
そう、分かってはいるのだ。
今日は陽介の帰りが遅いと言う事は。
昨日のうちにそう言われていたから。
仕事でどうしても帰りが遅くなる、と。
ネクタイを外し、ソファの背に掛けて、それきり何もする気になれない。
ソファに沈み込んだまま、自分以外の気配のない部屋を見渡して、思う。
――この部屋、こんなに広かったんだな、と。
陽介の存在がないだけで、いつもと変わらないはずの部屋が随分と広く感じる。
いつまでもこんなところに沈み込んでいる訳にはいかないと分かっているが、何もする気になれない。
稲羽に行くまでは、陽介と一緒に暮らすまでは、当たり前だったはずの光景。
独りで居る事には慣れているはずだった。
それなのに、この場所から動くことが出来ない。
このままの状態でここに居たら、帰って来た陽介が心配するなと思うが、それでもやっぱり動く事は出来なかった。
どのくらいの時間が過ぎたのか、静かに扉が開く音がして、次いで聞こえてくる「ただいま」という聞き慣れた声。
足音が近づいて来て、そうしてソファに沈み込んでいる悠の姿を見た陽介が驚き目を見開くのが見えた。
「どうしたんだよ、具合でも悪いのか?」
驚いた様子で陽介が近づいてくる。
目の前に立ち、確認する為に悠に向かって伸ばされた手を掴み、引き寄せる。
そのまま抱きしめて――腕の中の温もりにほっと安堵の息を吐き出した。
「――っ!?」
腕の中の陽介が、驚き息を飲むのが分かる。
抱きしめる腕に少し力を込めれば、苦しいのか恨めし気な声が腕の中から聞こえて来た。
「どうしたんだよ」
言いながら悠を軽く叩き、解放しろと訴えて来る。
けれど、解放してやることは出来なかった。
「遅い」
「――遅くなるって言っていおいただろ?」
「知ってるけど、遅い」
「……仕方ないだろ、仕事なんだから」
「分かってる」
「なら――」
「いやだ」
「はあ?」
解放しろと言いかけた陽介の言葉を遮って伝えれば、呆れたような声が聞こえてくる。
それ以上何も言わずにいれば、陽介が溜息を吐き、次いで微かに笑って告げた。
「珍しいな、お前がそんな我儘言うなんて」
「陽介が遅いのが悪い」
「はいはい、分かりました。俺が悪かったです」
笑いながら、そう陽介は言う。
その手がそっと、悠の背に回されて、宥めるように軽く叩いた。
そうしてやっと落ち着いたのか、陽介を抱きしめていた悠の腕が僅かに緩む。
途端に陽介は僅かに悠から離れて、にやりと笑う。
何をと思う間もなく、陽介は悠の唇に自分のそれを重ねた。
驚き悠は目を見開く。
軽く触れて離れていこうとする陽介の後頭部を押さえつけるようにして、深く口付けた。
驚いたのか陽介は僅かに抵抗する。
それが徐々になくなっていって、そしてそのまま――。
と思った途端に、陽介が悠を押し返す。
何だと不満げに見れば、食事にしようと言われる。
そういえば何も食べていなかったと思い出し、陽介に従う事にした。
「ただいま」「お帰り」、「おはよう」「おやすみ」。
そんな風に、これからも互いに返すのだろう。
慣れていたはずの独りには、きっともう戻れない。
けれど、ずっと共に在ると信じられるから。
あれが食べたい、これが食べたいと言う陽介のリクエストに応える事にする。
それは、他愛もない当たり前の日常。
ずっと続くと信じられる、日常がここに確かにあった。
END
2014/04/04up : 紅希