■染まる

 「……暑っ」

 夏期講習の会場を出た途端、思わず呻いた。
 もう空は夕焼け色に染まっているのに、暑さは一向に収まる気配がない。
 勉強に支障がない程度に冷えていた教室内とは温度が違い過ぎて、一気に身体が怠くなった。
 横浜は海の傍にあるから、季節によっては海風が気持ち良かったりするんだけど。
 さすがに体温みたいな気温の中で吹くと、不快さが増す。
 毎年の事だとはいえ、この熱気だけは夏の風物詩として受け入れられる気がしない。

 「お、榊。お疲れー」
 「ああ、お疲れ」

 同じ講習を受けていたクラスメイトが後ろから声をかけてくる。
 暑さにウンザリしたのも同じみたいで、吹き出した汗を拭いながらため息をついていた。

 「な、水分補給を兼ねて何か食って帰らねぇ?」
 「あー…悪い。ちょっと部室に寄るからさ」

 まさに水分補給が必要だと思っているところに受けた誘いを、苦笑しながら断る。
 大学受験を控えた3年生は、いかに夏休みを勉強に費やすかが試される訳だが。
 全国音楽コンクールのファイナルが目前に迫っているオケ部に対しての方が、切迫感が強い。
 だから基本的には部活を優先しているんだけど、今日は医学部志望向けの外部講習で外せなかった。
 丸1日、受験勉強で拘束されてしまった分、今から少しでも楽器を触っておきたい。

 「そっか、オケ部は大会だもんなー。頑張れよ!」
 「サンキュ」

 激励をくれるクラスメイトに軽く手を挙げて応えてから、自販機経由で部室に向かった。
 音楽科のある学校で、普通科のくせにオケ部に入って全国制覇を目指してる変わり者。
 1、2年生の頃は音楽科の人間からも普通科の人間からも、嘲られている空気があった。
 『頑張っても無駄なことに時間と力を使ってる』って。
 それでもずっと続けて来て、副部長なんてやって、実際に全国が見えてくると応援してくれるヤツらも増えた気がする。
 その空気が少しだけ心地良い。
 見栄っ張りな俺としては、それなりに成果を残さなきゃという気にもなる。

 「さて、練習、練習っと」
 「……大地?」

 受験生モードから気持ちを切り替えて練習を始めようと部室に入ると、中から声をかけられた。
 最近、ほとんど部室の主と化しているオケ部部長、律だった。
 帰りに練習するつもりで今朝、楽器を預けに来た時も律と顔を合わせている。
 さすがに1日籠っていた訳ではないだろうが、さすがに驚いて聞いてしまった。

 「律、まだ部室に居たのか?」
 「ああ、譜読みに集中していた。……もうこんな時間になっていたんだな」

 答えながら夕方になった窓の外を見て、律が驚いた顔をする。
 律は音楽の事となると、大げさじゃなく他の事が何も目に入らなくなる。
 またか、と思って笑うと、律は少し困った顔をした。

 成分分析をする気も起きないほどいろいろな事を気にしている俺と違って、律の頭の中はシンプルだ。
 『100% 音楽』
 きっとそれでも足りないと思っているほどに、音楽を、ヴァイオリンを愛している。
 むしろ『魅入られてる』とか『囚われている』とか言った方がいいかもしれない。

 初めて会った時から、律は追い立てられるように音楽の高みを求めていた。
 高校生活最後の今年は、さらに拍車がかかっているような気がする。
 たぶん、去年、腕にケガをして音楽を失う怖さを感じたせいもあるんだろう。
 傍で見ている俺の目には、その切迫した情熱が痛々しく映る事さえある。

 ―――それが俺には少し羨ましい。

 無心に何かに魅入られ囚われるというのは、たぶん天から与えられる才だろうと思うから。
 そういう意味で、律は天才だと思っている。
 律は、欲しい能力や立場を人知れず努力することで必死に捕まえている俺とは対極に居る。
 出会ったばかりの頃は、その“天才”から求められる技術の高さに辟易することもあったけれど。

 『君は俺と共に全国優勝を果たすんじゃなかったのか』

 怠け心を起こすたび、律に真っ直ぐな瞳でそう言われ続けて。
 退くことも逃げることも許されずに3年間、やってきた。
 ………いや。
 辞めようと思ったら、いつでも辞められたんだろうと思う。
 だけど、気がつけばここまで続けてきてしまった。

 ―――俺はいつからか、音楽じゃなく律に魅入られ、囚われていたのかもしれない。

 律から病気でもうつされたように、俺の頭の中まで“全国制覇”の夢に染まる。
 目前に迫ったファイナルを勝ち抜けば、その夢に手が届く。
 不意に高揚した気分になって、帰り支度を始めた律を呼び止めた。

 「律、もし急いで帰るんじゃなければ、俺と合奏してくれないか?」
 「構わないが……大地がそんなことを言うなんて珍しいな」
 「暑さでやられたかな。手厳しい如月部長の指導を受けたくなったんだよ」
 「…………合奏するなら早く始めよう。練習室が閉まるまで、もうあまり時間が無い」

 冗談めかして答えた俺に律が一瞬、憮然とした表情を見せる。
 けれどすぐに練習室に向かうためにヴァイオリンケースを持って歩き出した。
 俺も慌ててその背を追って部室を出た。
 夕焼け色に染まる廊下にはもう他の生徒の姿は無い。
 ただ俺たちが夢に向かう路だけ、目の前に延びているような気がした。
 


END



2015/08/07up : 春宵