■禁断
雨が降っている。
降り始めたのは陽が傾きかけた夕暮れ時。
今日は数日ぶりにマトモな宿に泊まれそうだ、と喜んだ矢先だった。
ぽつりぽつりと落ちてくる滴を見上げている合間にも、雨足は強くなって。
すっかり陽が落ちた今では、どしゃ降りになっている。
野宿じゃないだけ幾らか助かったとは思うけれど―――
静かな寝床に落ち着く算段が整えば、別の問題が際立ってくる。
雨が降ると三蔵の機嫌と調子が見るからに悪くなってくるからだ。
「は、腹減ったーーー。三蔵、飯は?」
「………うるせぇ。そこの生け花でも食ってろ」
「えー! あんなんじゃ腹ふくれねーじゃんよ」
「おい、猿。とりあえず生け花食う事は否定しておけ」
「猿って言うな、エロ河童!」
―――後半の悟浄と悟空のじゃれ合いはいつもの事だとしても。
雨の時は一緒に過ごす時間が長いだけ、どんどん場の空気も険悪になってくる。
僕たちも対処法は心得ていて、早々に夕食を済ませて解散ということになった。
「………なんて、人の事は言えないんですけどね」
買い出しをするには遅い時間だし、1人になってやることがある訳でもない。
必然的に早めに布団に入ることになったものの、眠れる気がしなかった。
―――雨が苦手なのは三蔵だけじゃない。
絶え間なく鳴る雨音は眠ろうとしている意識に浸食してきて、嫌でも僕を蝕む。
雨粒が髪を撫でる。頬を滑る。服に染み込み、身体に張り付く。
部屋の中に居るのだから実際にはあり得ないのに、生々しくその様を感じられる。
それは、遠い過去になってしまった懐かしい感覚さえ思い出させて………。
花喃。
呼べば心が軋むように痛むその名を、愛しさを込めて胸に思い浮かべる。
彼女は僕が最初に愛した人。
そして、この世で唯一の家族―――実の姉だった。
禁断だから燃えたのだろうと卑下た言葉で揶揄されたこともあるけれど。
僕たちはきっと、心も身体も決して離れないようにひとつに結びたかっただけだ。
離れ離れに育てられた僕たちは、孤独や寂しさを身に染みてよく知っていたから。
『私たち、このままひとつになれればいいね』
花喃も口癖のようにそう言っていた。
優しく響く彼女の声が好きだった。
僕の手が好きだと言って甘えるように頬を寄せる仕草が好きだった。
僕たちはお互いに自分の身体を相手の身体に結わえ付けるように。
湿り気を帯びて触れ合うすべての部分から溶けてひとつに繋がるように。
二度と離れないようにと祈るような想いで相手にしがみついていた。
普段、多くを望まない彼女が、その時だけは永遠を欲しがって………。
振り返っても、僕たちは分不相応の幸せを望んだ訳じゃなかったと思う。
愛する人と、大切な家族と、少しでも長く一緒にいたい、と。
そう思うのは人間としてごく当たり前の願いだったじゃないか、と。
恨み言と言うよりも呪いに近い思いを込めて、顔をしかめる。
僕はただ、彼女と、2人で過ごす小さな幸いを守りたかった。
その想いさえあれば当たり前に生きていられるのだと信じ切っていた。
ましてあの時はまだ、僕は人間だったのだから。
でも、違った。
僕は人と妖怪と両方に絶望して、愛する人を失った挙句―――人間でもなくなった。
「三蔵たちと出会って少しは吹っ切れたと思ったのに……ダメですね」
何度も見た彼女を失う悪夢で飛び起きて、ため息交じりに呟く。
雨音に囚われれば、容易く暗い思い出の中に落ちてしまう。
雨音が、耳鳴りのように響いている。
妖怪に彼女が攫われたあの日。
彼女を妖怪に差し出した村人たちを僕は容赦なく手にかけた。
直前までとても良くしてくれていた事など、頭をよぎりもしなかった。
悲しむ親の居ないお前たちを犠牲にして何が悪い、と。
僕に向かって言い放って憚らない、煩い口を閉ざさせたかった。
雨音が、耳鳴りのように響いている。
そして彼女が連れて行かれた妖怪の城を見つけて―――
そこでは妖怪を殺して、殺して、殺しつくした。
彼女が好きだと言ってくれた僕の手がどれだけ血で汚れても構わなかった。
ヒトやヨウカイを殺戮することが禁忌だろうが禁断だろうが、それも構わなかった。
僕は、貴方の為なら、何でも出来る。
何でも差し出すから、そっとしておいて。
僕と僕の愛する人を、放っておいて。
僕たちは僕たちだけで、僕たちだけが喜ぶ幸せを作れればそれでいい。
他には何も望まないから―――。
祈りながらようやく会えた時、彼女は泣きながら僕の懐から剣を取り出して。
そして、その命を自ら断った。
お腹の中に彼女を攫った化け物の子供が居るのだと言っていた。
現実の雨の音が、彼女が命を絶ったあの時の雨音と共鳴して響いている。
どうして、彼女には、僕の想いが届かなかったんだろう。
あんなに離れないように互いに互いを結びつけたはずなのに。
―――僕は、君が望むなら、何でも出来たのに。
化け物の子供でも、愛して見せたのに。
耳に響く雨音が、疎ましい記憶を甦らせる。
彼女が命を絶った直後。
僕は千人目の妖怪の血を浴びて、自らが妖怪となった。
彼女を攫い、犯し、その命を絶たせた忌まわしい存在に、この僕がなってしまった。
あの時の雨音が耳から離れない。
あの時の雨音に現実の雨音が輪をかけて頭を混乱させる。
「………花喃っ!」
僕は膝を寝台の上で膝を抱えて、愛しい彼女の名前を呼んだ。
その身体を抱きしめられない代わりに耳に着けた妖力制御装置を指で触る。
本来、人間界で暮らす妖怪が強制的に妖力を抑え、人に溶け込むために着ける装飾具。
それを僕は自分への戒めのために身に着けていた。
彼女を助けられなかったことを、そして自分が憎むべき妖怪になったことを、片時も忘れないように。
闇に光る戒めの装置の冷たさと硬さを確かめて、僕はそっと部屋から滑り出る。
少し外に出て頭を冷やせば落ち着くかもしれないと、無理矢理に思い込む。
幸い、頭を冷やすための水の滴が嫌と言うほど空から降ってきているのだから。
◇◆◇
「………で、どうして此処に居るんです、悟浄?」
無理にでも頭を冷やそうと思って宿を出たところで、隠れている人の影を見つけて苦笑した。
三蔵や悟空に“触角”と言われている癖のある髪で、うずくまって隠れていても彼と分かった。
軽薄な女好きの男。
そう言えば身も蓋も無いけれど、普段女性に向ける気遣いをたまに仲間に向けて見せるのが、彼の本来の性分なのだと思う。
出会いの時から僕の抱えるものをある程度知っている彼は、こうして狙い澄ましたように暗い闇に飲み込まれそうになる僕に自分から寄り添う事がよくある。
―――それも、絶妙に警戒しない程度の距離を取って。
「あ? 雨宿りさせてくれる美女を探してただけだよ」
「こんなどしゃ降りの雨の中を、好き好んで外出する女性も居ないと思うけど」
「だからこそ、出会えたら運命なんだろうがよ」
くしゃりと煙草の包み紙を握り潰しながら笑う悟浄は、一体いつからそこに居たのか。
足元にいくつも吸殻が落ちているのを見て、僕はまた苦笑する。
本当に美女を待ち続けていた気持ちが半分。
三蔵か僕が宿をそっと抜け出すかもしれないのを見越して待っていたのが半分。
悟浄の性格を考えれば、そんなところだろうか。
問い質せばきっと『猿のイビキが煩かった』と言ってかわされるだろうから止めておくけれど。
「あの、悟浄?」
「ん?」
「美女じゃなくて申し訳ないのですが、僕に付き合いませんか?」
雨音が耳鳴りのように響いている。
その不快さは変わらないけど。
僕に甘えてくれる愛しい人を失った事実は変わらないけれど。
僕には気遣ってくれる誰かが傍に居てくれる。
その小さな不幸中の幸いを、今は受け入れて寄りかかろう。
目を閉じて花喃の優しい微笑みを瞼に焼き付けてからもう一度、目を開ける。
「………少し、飲みたい気分なんですよね」
「へぇ、八戒が飲みたいなんて珍しいな。………けど、男を酔い潰す趣味はないぜ?」
「僕を酔い潰せると本気で思ってるんですか、悟浄?」
「あー……先に潰れるのは、オレだな」
雨粒で頭を冷やす代わりに宿から傘を借りて酒場に向かって歩き出す。
もう少し、もう少し。
自分に言い聞かせて、僕はまだ生きていく。
こうして僕に寄り添う仲間が傍に居る限り。
END
2013/04/25up : 春宵