■壊れた時計
学校からの帰り道、立ち止まり、霧に覆われた空を見上げる。
そうして視線を落し、自分の手を見つめる。
ぎゅっと握りしめて溜息を吐き出す。
もしもやり直せるのなら――そう思ってもどうにもならない。
「お前達が悪い訳じゃない。俺なら、大丈夫だ」
最期の瞬間までそう言っていたあいつを思い出す。
戦闘が終わり、倒れたあいつを抱き起したあの時。
あの時はまだ確かにあったぬくもりが、今はもうない。
腕の中、ぬくもりが徐々に消えていくあの感触は忘れられそうにない。
あの日から一歩も進めていない。
それは陽介だけじゃない。
特捜隊の仲間達皆、あの日あの瞬間から前に進めていないのだ。
皆の時間はあの日あの時止まってしまって、動けずにいる。
あの日あの時に壊れた時計は、いつの日か動くのだろうか。
この町を覆う霧が未だ晴れないように、陽介たちの心にも深い霧が掛かって晴れる事はない。
あいつが居なくなってしばらくは、どうにか事件を解決しようと皆で頑張っていたが。
集まる度に思い出すのはあいつの事で、それが辛くて。
皆集まらなくなるまでに、そう時間は掛からなかった。
怒る事が出来たなら、少しは違ったのかもしれない。
悲しむことが出来たなら、少しは違ったかもしれない。
怒りも悲しみも確かにあるのに――どうすればいいのかが分からない。
何故なら、あいつの命を奪ったのは、他でもない自分達だからだ。
あいつの命を奪ったのが他の誰かならば、その誰かに怒りを向ける事が出来ただろう。
あいつの命を奪ったのが他の誰かだったならば、悲しむことも出来ただろう。
そのどちらも出来ずに、怒りの矛先は自分へと向かう。
悔やんでも仕方ないと分かっていても、浮かぶのは後悔ばかりで。
悲しいと思っても、悲しみを露わにすることも出来ずに、感情は行き場を失う。
だからなのか、あの日以来笑う事もなくなっていた。
立ち止まったまま再び霧に覆われた空を見上げて、諦めたように陽介は移動する。
ここで立ち止まっていても邪魔になるだけだ。
冬のこの時期ならば、鮫川の河川敷にはほとんど人が居ないだろう。
そう思い、鮫川へと向かって歩き出す。
一度思い出したらもう、どうしたって考えずにはいられない。
いや、忘れたことなど一度だってない。
ただ普段は、出来る限り考えないようにしているだけだ。
現実から目を逸らしているだけだと分かっている。
だが、鳴上がもうどこにも居ないという事実と、向き合えない。
分かっているし理解もしている。
だがそれでも、受け入れられないのだ。
それは陽介だけではなく、恐らくは特捜隊の仲間皆そうなのだろう。
だからこそ、皆集まらなくなり、特捜隊は事実上の解散状態なのだから。
皆、ばらばらになってしまった。
クマはテレビの中の世界へと帰り、りせも両親の居る家へと戻って行った。
直斗も探偵業に戻ると言いこの町を去り、完二は以前程ではないにしろ、再び喧嘩をしているのを見かける。
あれ程仲の良かった里中と天城も一緒に居る事はなくなり、お互いに独りで居る事が多くなった。
そして陽介も、独りで居る事が多い。
話し掛けられれば適当に答えるが、以前のような訳にはいかない。
最初のうちは気を使って話しかけてきた一条や長瀬も、最近では話し掛けて来なくなっている。
それでいいと陽介自身も思ってしまっているのだ。
独りは嫌だと思っていたはずなのに、今は独りで居る方が気が楽でいい。
もう二度と、仲間と過ごしたあの日々は、戻って来ないのだから。
鮫川の河川敷に立ち、川を眺める。
と言っても、霧が掛かっていて、はっきりとは見えないのだが。
それでもただじっと川を眺めていると、視界に白いものが落ちて来るのが映る。
見上げれば、霧に覆われた空から、雪が落ちて来るのが見えた。
霧に覆われた空から落ちてくる雪をしばらく眺めて、川へと視線を戻す。
霧のせいであまり良く見えない川面を眺めながら、あの日へと思いを馳せる。
息苦しさを感じ、胸の辺りの服を掴み、ゆっくりと息を吐き出した。
前日に、菜々子と共にテレビの中に入ったと思われる生田目を追う為に、陽介達はジュネスのいつものテレビから中へと入る。
テレビの中に入れられたであろう菜々子が作り出したと思われる場所は、優しくてでも悲しくて。
珍しく焦る鳴上を宥めながら、陽介達は先へと進んでいた。
そうして辿りついた場所には生田目と菜々子が居て。
戦闘へと突入する。
あの時の事は、はっきりとは覚えていないが、全く覚えていないわけでもない。
戦っていた最中に、急に体の自由が効かなくなり。
気付いた時には、生田目に操られ、鳴上と対峙していた。
それは陽介だけではなく、他の仲間達も同様で。
あの場に居た鳴上以外の全員が、鳴上と対峙していた。
りせまでもが操られ、的確に、陽介達に鳴上の弱点を教える。
頭に霞が掛かったようではっきりとしないまま、陽介達は鳴上へと攻撃していた。
反撃すればいいのに、何故か鳴上は一切陽介達に攻撃することはなく。
只管に、仲間からの攻撃に耐えていた。
ペルソナを沢山持っている鳴上は、陽介達の攻撃に、出来る限り耐性のあるペルソナを呼び出し、攻撃を防いではいたが。
全部防ぎきれる訳もない。
自分達の攻撃によって傷ついていくあいつの姿を、どこか遠くから見ているようなあの感覚。
正気に戻った時のあの衝撃は、今でも忘れられない。
陽介達が正気に戻った時には、怪我はしていたがいつもと変わらない素振りで、鳴上は立っていた。
そうしていつものように、陽介達に指示を出していた。
違和感がなかった訳じゃない。
それでも、普段と変わらない様子の鳴上に、安堵してしまっていたのだ。
操られていたとはいえ、攻撃してしまったという罪悪感のせいもあったのだろう。
大丈夫だと言う鳴上の言葉をそのまま受け取り、陽介達は鳴上の指示通りに、生田目と戦った。
生田目を倒し、ほっと一息ついた途端、その場に倒れる鳴上。
仲間達は皆、急ぎ鳴上の元へと駆け寄った。
倒れた鳴上を抱き起し、濡れた感触に眉を顰め、自身の手を見た途端、陽介は驚く。
陽介の手は、血で真っ赤に染まっていた。
それを見て悲鳴を上げる女子達。
泣きながら、鳴上に回復魔法を掛けるクマ。
それを見て、無言で天城も回復魔法を掛け始める。
けれど――。
二人の精神力がつきるまで回復魔法を掛けても、駄目だったのだ。
生田目との戦いの直後だ。
二人の精神力もそれ程残ってはいなかった。
それに、アイテムも――使えるものは何も残っていなかった。
何故気付かなかったのかと。
赤く染まった自身の手を見て、陽介は思う。
テレビの中に入って戦い始めたばかりの頃は、血の匂いに慣れなくて、だからこそ、誰かが怪我をしていれば直ぐに分かった。
そう言えばあの頃から鳴上は、自分の怪我を隠す傾向にあったなと思い出す。
戦い続ける日々の中、怪我など日常茶飯事で、血の匂いにも慣れ、だからこそ気づかなかった。
制服が冬服になっていたのも、原因の一つだろう。
黒い制服は、怪我を隠してしまう。
血が滲んでいても、分からないのだ。
「なんで、何も言わないんだよ。どうして……!」
「大丈夫だ、陽介。このくらい、大した事、ない」
「どこだがよ」
「なあ、陽介、一つ頼まれてくれないか」
「そんなのは、後で聞く」
鳴上にそう言って、陽介は仲間達に指示を出す。
一刻も早くここから出て、鳴上を病院に連れていかなければならないと思っていたからだ。
菜々子は里中が抱え、完二は倒れている生田目を引きずるようにして連れて行く。
そんな様子を眺めながら、鳴上は少し強い口調で、告げた。
「陽介。菜々子の事を、頼む」
「後で聞くって言ってるだろ! それに、そんなに心配なら、さっさと元気になってお前が見てやればいい。菜々子ちゃんだってその方が」
それ以上、言葉を紡ぐことが出来なかった。
何となく分かっていた。
もう、無理だって事も。
それでも、認めたくなかった。
それは他の仲間達も同じようで、何も言わずにただじっと鳴上を見つめている。
そんな仲間に対し、鳴上は微かに笑って、告げる。
「お前達が悪い訳じゃない。俺なら、大丈夫だ」
いつもと変わらない、微かな笑みを浮かべて言ったその言葉が――最期の言葉だった。
腕の中に確かにあったぬくもりが、消えていく。
その瞬間、陽介達の中の時間は、止まってしまったのだ。
あの後どうしたのかなんて、正直良く覚えていない。
分かっているのは、鳴上の死が、事故死の扱いになったこと。
菜々子ちゃんと堂島さんが今もまだ入院している事、くらいだろう。
菜々子の事を頼むと鳴上に言われたが、陽介は一度菜々子の様子を見に病院に行ったきりだ。
意識の戻らない菜々子を見て、思い出すのはあの時の事で。
この子から、お兄ちゃんを奪ったのは自分達なのだと。
そう思えば居たたまれなくて、申し訳なくて。
仲の良い兄妹だったのだ、鳴上と菜々子ちゃんは。
それなのに。
菜々子ちゃんの意識が戻った時、鳴上の死をどう伝えればいいのかなんて、分からない。
事故だと言えばいいのだろうが、本当の事を知っている以上、そう伝える事も、出来そうにない。
結局、菜々子ちゃんを見ているのも辛くて、あれ以来病院に行くことも出来ずにいるのだ。
流石に寒いな、と陽介は思う。
それもそうだろう。
ここに来た時にちらちらと舞い始めた雪は、今では薄らと辺りを白く染め始めている。
それでも、この場所を動く気にもなれなかった。
「あれ〜? そこに居るの、花村君、だよね?」
聞き覚えのある声にそちらを向けば、誰かが近づいてくるのが見える。
良く見えないが、恐らくは足立だろうと陽介は思っていた。
「ああ、やっぱりそうだ。こう霧が凄いと近づかないと見えなくてね」
「そうですね」
「何やってんの、こんなところで」
「別に、何も」
「そう」
「そういう足立さんは、何してるんですか、こんなところで」
別に興味もなかったが、陽介の隣に立っている足立は、直ぐにどこかに行く様子はない。
だから、仕方なく、そんな事を聞いてみた。
「あー、うん。一応仕事中、なんだけど、ね」
「仕事、ですか」
「堂島さんにね、調べろって言われて調べてるんだけど、中々、ね。……轢き逃げの犯人は、時間が経つと見つかりにくくなるから」
「……轢き逃げ?」
「あー。堂島さん、奥さんも事故で亡くしてるんだよ。轢き逃げらしくてね。だから……その、今度こそはって、ね。まだ動けないから僕が調べてるんだけど、中々、ね」
鳴上の事故を調べてたのだと足立の口調で分かる。
どんなに調べたって犯人なんて見つかるはずがない。
――あいつの命を奪った犯人は、ここに居るんだから。
けれど、それを言ったところでどうにもならない。
テレビの中の世界の話をしたところで、誰も信じてはくれないだろうから。
それにしても、堂島さん、奥さんも事故で亡くしてるのか。
その上甥っ子の鳴上までとなるとそれは、必死になるのも分かる。
「まあ、犯人ちゃんと見つけるから。任せておいてよ」
陽介が何も言わない事を勘違いしたらしい足立が、そんな事を言う。
犯人なんて見つかるはずもないのに、と思う。
だってあれは、事故じゃないのだから。
「……はい」
そう答えるのがやっとだった。
お願いだからもう、放っておいてくれ、独りにしてくれという陽介の願いが通じたのか、「それじゃあ、ね」と言って足立は去っていく。
再び独りになって、陽介は深いため息を一つ零した。
先程思った事が、じわじわを陽介を侵食していく。
あいつの命を奪った犯人――そう、そうなのだ。
そんな事は分かっていた、分かっていたと言うのに。
初めて事実を突き付けられたような、そんな気分だった。
受け入れなければならないのだろう。
あいつがもう居ないと言う事も、あいつの命を奪ったのが自分だと言う事も。
そう簡単に、出来そうにはないが。
今はまだ、あいつと過ごした楽しかった日々を思い出す事さえもが辛い。
けれどいつか――いつの日か、楽しかったと思い出すことが出来たらいいとそう思う。
いつになるのかは、今はまだ分からないが。
踵を返し、家へと向かって歩き出す。
ここに居ても、何も変わらない。
いつの日か、全てを受け入れられる日が来るのだろうか。
その時が来たら、止まってしまった時は、動き出すのだろうか。
もう直ぐ、今年が終わる。
壊れた時計を抱えたまま、それでも時の流れに沿って進むしかない。
陽介自身は一歩も動けないで居るとしても。
それでも、時は流れていくのだから。
霧に覆われた町の中を、家へと向かって歩く。
いつの日か、壊れた時計が動き出すことを、願って――。
END
2013/05/06up : 紅希