■壊れた時計
2010年に撫子を帰したため、この世界の撫子は再び眠りについている。
カプセルの中で眠っている彼女の姿は、見慣れたモノのはずなのに。
先程まで動いて喋っていたのだと思えば、何とも言えない気分になる。
動いている彼女が見たいと、触れたいと、思う。
それはもう、この10年の間に何度も何度も思ったことだが、今まで以上にその思いは強くなっている。
動き、喋る彼女を見てしまったからだろうと言うのは、容易に想像がついた。
手を伸ばし彼女に触れようとして、けれどガラスケースに阻まれ叶わない。
話し掛けてみても、答えが返ることはない。
閉じられたその目に、自分の姿が映ることも、ないのだ。
形容し難い寂しさに囚われて――そのまま抜け出せなくなるんじゃないかとさえ思う。
こんな思いをするくらいなら、彼女を帰さなければ良かったと、そう囁く声が内から聞こえた気がした。
彼女だって帰りたくないと言っていたのだから、そうすれば良かったのだ、と。
けれどそれは出来ないと改めて思う。
鷹斗の傍に彼女が居れば、彼女にも危険が及ぶ。
鷹斗は殺されなければならない。
そうしなければ終わらない。
それはいい。
俺は、どうなっても構わない。
それだけのことを、してきたのだから。
けれど彼女は――彼女を傷つけさせる訳にはいかない。
それだけは、阻止しなければならない。
それに、何よりも、彼女の幸せを願ってしまったから。
傍に居てほしいと言う思いよりも、彼女が幸せになる事を望んだ。
それも結局は自分の勝手な願いだと言う事もまた、分かっている。
帰りたくないと言う彼女を、無理矢理帰したのだから。
「俺は、彼女を悲しませてばっかりだね」
思わず呟く。
その言葉に、返る声はない。
静かな室内に、自分の声だけが響いて――そして消える。
この10年当たり前だったはずの光景なのに、寂しいとか、悲しいとか、そんな言葉では表せない強い喪失感に囚われる。
囚われて堕ちて行きそうになるのを、耐える。
自分が情けない事なんて良く分かっているけれど、これ以上情けなくはなりたくなかった。
ふぅ、と息を吐き出して、懐中時計を眺める。
壊れたと思っていた懐中時計は、しっかりと時を刻んでいた。
まるで鷹斗の時間が動き出したことを象徴するかのように。
鷹斗自身気付いていなかったが、鷹斗は彼女を取り戻すことで、奪われた過去を取り戻したかったのだ。
だからこそ、2010年の彼女を連れてきた。
彼女が事故に会う前の、過去の彼女。
ずっと過去を見ていた。
今を見ていなかったと気付いたのは、彼女のお陰だ。
「私は、貴方の知っている撫子じゃない」
そう彼女に言われた時は、本当に意味が分からなかった。
確かに目の前に居るのに、何故そんな事を言うのか、と。
けれど、それでもと考えてみて――彼女が遠い事に気付いた。
ずっと感じていたのだ。
彼女が目覚めてからずっと。
手を伸ばせば触れられる距離に確かにその存在はあるのに、何故彼女はこんなにも遠いのか、と。
――俺は、目の前に居る彼女を、見ていなかった。
彼女を通して、過去を見ていたのだ、ずっと。
いや、彼女を通すまでもなく、鷹斗はずっと過去だけを見ていた。
あの時から、ずっと。
時を刻み始めた懐中時計をじっと見つめて、過去へと思いを馳せる。
取り戻したいと願っていた、過去へと。
撫子が事故にあったのは、中学生の時。
その日、鷹斗は撫子と水族館へと行く約束をしていた。
約束の時間、約束の場所。
けれど、彼女は来なくて。
待ち続けていた鷹斗は、撫子が事故にあったと知らせを受ける。
急ぎ病院へと行けば、そこには理一郎の姿があった。
白い部屋、白いベッド。
そこに横たわる彼女は――もう二度と目を覚まさないだろうと医者に言われたらしい。
眠る彼女の姿を見て、その言葉を聞いて、その瞬間、鷹斗の時は止まった。
ずっと時を刻み続けていた時計は、この瞬間に壊れたのだ。
その事に、あの時は気付かなかった。
ずっと壊れた時計を抱えて居たなんて、知らなかった。
鷹斗の時は、あの時から全く動いていないなんて、気付かなかった。
寂しいとか悲しいとか、そんな言葉では表せない喪失感。
そして、初めて抱いた、怒りの感情。
どちらの感情も強すぎて――そのせいなのか、時計が壊れたせいなのか、元々希薄だった感情が完全に止まってしまった。
強い怒りを感じた直後、何も感じなくなる。
願うのは、ただ一つだけ。
理不尽に奪われた彼女を、取り戻す事。
彼女を取り戻すためならば、何を差し出しても構わない。
この世界さえも、彼女が居なければ、意味などないのだから。
そして鷹斗は、撫子と共に病室から消える。
理一郎がその場を外した僅か二時間の間に。
ずっと彼女と共に歩いていきたいと思っていた。
それ程多くを望んだ訳じゃない。
ただ、当たり前の日常を、彼女と共に過ごしたかっただけだ。
その願いは、鷹斗には過ぎたモノだったと言う事なのか。
こんなに簡単に奪われて良いものなのか。
分からなかった。
――奪われたのなら取り戻せばいい。
たとえそれが神に抗う行為でも構わない。
元々神様なんて、信じていないのだから。
俺から彼女を奪うような、こんな世界なんて要らない。
何を、誰を犠牲にしても、彼女を取り戻してみせる。
それ以外は、何も要らないのだから。
そこまで思い出し、鷹斗は苦笑する。
今ならば分かる。
あの瞬間に、鷹斗の中で時を刻んでいた時計が壊れたのだ。
時を刻まなくなった壊れた時計を抱えて、過ごして来てしまった。
鷹斗自身それに気付かないままで。
しっかりと時を刻む懐中時計をじっと見つめる。
撫子が何故これを持っていたのかは分からない。
そして、あの瞬間に何故動き出したのかもまた分からない。
まるで鷹斗の時が動き出したことの象徴でもあるかのように、動き出した懐中時計。
鷹斗の時が完全に止まったとしても、この懐中時計は動き続けるのだろう。
それにしても、彼女がこれを向こうの世界へと持って行かなくて良かったと思う。
いずれ彼女はこちらの世界の記憶を失う。
そう遠くないうちに、全てを忘れるだろう。
だから、こちらの世界の物など、持って行かない方がいいのだ。
――君が全てを忘れてしまっても、俺が覚えているから、ずっと。
懐中時計をしまい、カプセルの中眠る彼女をじっと眺める。
彼女が目覚める可能性は、限りなく低い。
それでも、待っていよう、待てる限りは、ずっと。
先程まで俺の目の前に居た君とも、10年前の君とも違う。
今ここに居る君が目覚めるのを、ずっと待ち続ける。
俺がこうしてここに居られる限りは。
いつまで君を待てるかは分からない。
鷹斗の時は、終焉へと向かって進み始めてしまっているから。
目覚めた君と、会えることを願っている。
その時には、君に何と言えばいいのだろうかと、そんな事を思いながら、鷹斗はカプセルの中眠る撫子をただじっと、見つめていた。
END
2013/05/11up : 紅希