■壊れた時計
「空ぁ、今、帰ったぞー」
玄関が開く音と一緒に兄ちゃんの声が聞こえてくる。
続いて、ドカドカと廊下を歩く足音。
………なんだよ、兄ちゃん。
探偵修業してる時はオレに『足音たてて歩くな』って言ってたのに、自分が出来てねーじゃん。
普段から意識して身体に覚えさせないと、いざという時に上手く出来ない。
見習い探偵にとっては、日々の生活すべてが訓練みたいなもんだと思っとけよ、とか。
偉そうに言ってたくせに、兄ちゃんも探偵失格じゃんよ。
ま、兄ちゃんくらいスゴイ探偵になると、いざという時にすぐ身体が動くんだろうけどさ。
「ただいま、空」
リビングのドアが開いて、オレに笑いかけながらそう言う兄ちゃんが顔を覗かせる。
うっ………。
数時間ぶりに顔を見て嬉しい事は嬉しいんだけど、相変わらずちょっと戸惑っちまう。
何度も見てるはずなのに“水都先生”のスーツ姿は心臓に悪いんだよなぁ。
けど、オレに向ける表情は兄ちゃんのものだし、喋り方も兄ちゃんそのものだ。
もともと緩めていたネクタイをさらに緩めて、ソファーのオレの隣に腰かける。
その仕草が少しダルそうで、疲れてるのかなって心配になった。
『おかえり、兄ちゃん。今日は遅かったんだな』
「悪いな、遅くなっちまって。期末テストの問題作ってたらこんな時間になってさ」
そっか、こんな夜遅くまで仕事してたら疲れた顔にもなるよな。
兄ちゃん―――この場合は“水都”なのかな?
どっちにしても大変だなーとか思ってたら、兄ちゃんがグイッとオレの肩を抱き寄せた。
そして、悪戯っぽく笑いながらオレの耳に顔を近づけて囁いてくる。
「空くんは、兄ちゃんがなかなか帰って来なくて寂しかったんだよなー?」
『………なっ………』
確実にオレをからかうために言った言葉だって、すぐ分かった。
けど『んな訳ねぇだろーーー!』って反応することは出来なかった。
兄ちゃんの低く囁くような声って、なんか力が抜けるんだよなぁ。
胸っていうか腹っていうか、内側に響いて身体の芯が震える。
こういうのが、いわゆる“口説き声”ってやつなんだろうなって、前にも思ったっけ。
兄ちゃんはオレがいちいちボーっとなるのを知ってるから面白いんだろうけどさ。
オレは全然、楽しくない。
遊ばれてんのも気に入らないけど、何でそう器用に声を使い分けられるんだよ。
―――他のヤツにもそういう事言って使い慣れてるんじゃねーよな?
想像すると、胸がちょっとだけモヤモヤっとする。
「ははっ、冗談だって。拗ねるなよ、空」
『兄ちゃんなんか、知らねぇ』
「悪かったって!……でも……兄ちゃんは、寂しかったぞ?」
『へ?』
今度は急に声のトーンを落とした兄ちゃんに、また間抜けな反応を返してしまう。
肩を抱かれているから表情はよく分かんないけど、兄ちゃんって時々こういう事言うよな。
どうしたんだろ、って兄ちゃんの声を聞き逃さないように耳を澄ます。
「帰るまでの間に、空が居なくなってるんじゃないかって何回考えたと思う?」
『………兄ちゃん………』
居なくなるなんて、そんなはずないだろ?
兄ちゃんを安心させられるような笑顔を作ろうとするけど、オレの表情は動かない。
余計な心配して落ち込むなよな、って冗談っぽく言いたいけど、オレの喉は言葉を紡がない。
―――オレたちが思うよりもずっと、兄ちゃんは孤独だったんだって知ったあの日。
普段、絶対に見せなかった暗い内面を見せた兄ちゃんは、混乱してオレの首を強く締めた。
その後遺症で、オレは意識が戻った後も身体が動かない状態になってしまって………。
壊れた時計が刻む時の中で生きているように―――止まった時間の中で生きていた。
そして、兄ちゃんもあの日から少しだけ壊れてしまった。
動かないオレに、動き回ってた頃と同じように接して生きてるんだ。
兄ちゃんの中の『空』の時計もあの日に壊れて、そのまま時を刻まなくなったんだろうなって思う。
じゃなかったら、同じ時間を何度も何度もグルグル回ってる感じ…なのかな?
「………そらぁ………」
焦点の合っていない目で正面を見つめたまま、身動き一つしないオレ。
その身体を、しがみつくようにギュっと抱きしめる兄ちゃん。
2人の姿が消えたままのテレビにぼんやり映ってるのが見えて、胸が痛くなった。
少し前まで、兄ちゃんのマンションは騒がしい声であふれてたよな。
オレと兄ちゃんが騒いでるのを七海ちゃんと直が叱って、その光景を見て祭が楽しそうに笑ってる。
小っちゃい頃、兄ちゃんに遊んでもらってた頃に戻ったみたいだったろ?
………オレ、嬉しかったんだ。
兄ちゃんと七海ちゃんにまた会えて、直も戻ってきて、祭も傍に居て。
しかも憧れの兄ちゃんの弟子みたいになって、探偵の修業までしてさ。
いろいろ辛い事もあったけど、またあの頃みたいに楽しい事もあるんだって信じられる。
そういう毎日が戻ってきたんだって。
けど、自分が楽しいだけで………オレ、兄ちゃんの事がよく見えてなかったのかな?
兄ちゃんには七海ちゃんが居て支えになってて、オレも兄ちゃんの事が大好きで。
直や祭だって、嫌だったら兄ちゃんの周りに集まったりしないはずじゃん。
皆、兄ちゃんの事、大事だって思ってたのに、何で一人ぼっちだなんて思ったんだよ?
「空は、何処にも行かないよな? 兄ちゃんの傍に居てくれるよな?」
毎日毎日、何度も繰り返し念を押す兄ちゃんの言葉がまた、静かな部屋の中に落ちる。
『心配しなくても、空を何処にも行けない身体にしたのはアンタだろ?』
胸の奥で夜が毒づくのが聞こえそうだけど、それさえも聞こえない。
『兄ちゃん』
聞こえないはずの声で兄ちゃんに語りかける。
兄ちゃんの傍に居るのは嫌じゃないし……本当に本気で、オレだって一緒に居たいと思う。
だから、兄ちゃんが安心できるんだったら別に動けない身体のままだっていいよ、オレ。
でも、この静かな部屋に兄ちゃんの声だけが響いてる。
ひとりぼっちだって事が辛くて心が壊れるくらいだった兄ちゃんが、またひとりぼっちになってる。
オレ、兄ちゃんのそういう姿を見てるのが痛い……。
そういう姿を見てて何も出来ないのが悔しいよ、兄ちゃん。
歩けなくていいから、動き回れなくていいから、指の先だけ動けよ。
味は分からなくても、物噛めなくても良いから、言葉を声に出せよ。
今まで発揮したことのないくらいの集中力で願う。
今まで見せたことがないくらいの本気の力で動く。
「………空?」
何か、気配を察したんだろうか。
抱きついていた兄ちゃんが、ふと顔を上げた。
今なら、この近さなら、どうにか感じ取ってくれるだろうか。
オレの想いを全部込めて、声と力を絞り出した。
「………し、ん………に……ちゃ………、そ……ばに……い、る……から」
「―――っっっ! 空!」
真兄ちゃん、傍に居るから。
辛うじて紡ぎだされた言葉は、兄ちゃんに届いたと思う。
びっくりした顔をしたから、大丈夫だと思う。
それを確かめて、今度は数ミリ動かせば届く距離にある兄ちゃんの手にどうにか指先だけ触れた。
動かない身体は血の巡りさえ悪くしているのか、指先に感覚があまりない。
兄ちゃんの手が温かいのか冷たいのか、オレには感じられない。
けど、兄ちゃんにはきっと分かったはずだ。
オレが自分の意志で、兄ちゃんの手に触れたことが。
―――どうだ、オレ、スゴイだろ?
兄ちゃん、惚れ直した?
誇らしい気持ちで笑顔を作ろうとしたけど、やっぱり力が入らない。
それどころか、力を使い過ぎたのか、ただ夜中で眠くなっただけなのか、急に睡魔が襲ってきて。
兄ちゃんの胸に倒れ込むように、オレは意識を手放した。
その耳に『空、ごめんな』と囁く声が落とされたことを、眠っているオレは知らない。
END
2013/05/10up : 春宵