■初恋

 自宅の練習室に入り練習の準備をする。
 子供の頃から、一番バイオリンを奏でていた時間が多い場所。
 当然、弾き始めるまでの手順をほとんど無意識に追うことが出来る。

 調弦をしながら考えるのは、これから弾こうとしている曲の事だ。
 技術的に問題がある訳ではないが、解釈に少し悩んでいた。
 さて、どうやって弾いたものか―――。
 まったく掴めそうにないイメージにため息をついた時。

 「………痛っ」

 手の甲に痛みが走った。
 それでようやく、手に怪我をしていたことを思い出す。
 普段から手先や腕、肩などの負傷には気を付けている。
 だから、いざ怪我をした時に配慮すべきことを忘れてしまっていたのだろうか。
 我ながら少し呆れて右手の小指の付け根を見る。
 手の甲側に小さく付いた傷を覆うのは、パステルカラーの模様の絆創膏だ。

 『こんなのしか持ってなくて……!』

 怪我をした当人よりも慌てた様子で絆創膏を差し出した日野の姿をふと思い出す。

◇◆◇


 今日の放課後は、屋上で実技の授業で渡された課題曲の譜読みをして過ごしていた。
 練習室が空いていなかったせいもあるが、静かな場所で考えたかったのだ。
 その曲について、じっくりと。

 『月森くんには少し難しい曲かもしれませんね』

 楽譜を渡しながら実技担当の教師がそんなことを言っていた。
 ざっと見た限り、技術的には“中の上”程度の難易度で問題があるとは思えない。
 弾いた経験こそないが、作曲家も世界的に有名だし聴いたことくらいはある。
 何故、先生がそんなことを仰ったのか分からない。

 多少難しい点があるとすれば。
 哀愁漂う序盤、華やかな雰囲気に切り替わる中盤、清らかで穏やかな終盤。
 変化のある曲調だから表現力を問われるだろうという事。
 そして、もともと歌曲だったものをバイオリン用に編曲しているので独特の癖がある事。
 だがそれも『難しい』と前置きをされるような事ではないと思える。
 ―――だというのに。

 『月森がこの曲を弾くのか?』

 解釈の為にも元の歌曲を聴く必要があるかと思い訪ねた金澤先生にも、驚いた反応をされた。
 自分では絶対に選ばない曲だろう、あの先生も分かってて課題曲にしたのか、とか何とか。
 理由を問えば、金澤先生は答えを返すわけでもなくただ笑った。

 『大いに青春を謳歌しろよ、若人』

 CDと曲の歌詞の注釈書を渡しながらそんな事を付け加えて。
 だが、訳が分からないまま手渡された注釈に目を通して、少し納得した。

 「初恋が主題の曲……か」

 その曲は作曲家が初恋の相手を想いながら書いた曲、とされているのだそうだ。
 想いが叶わないのではないかと不安がる、または想い人がここには居ないという哀愁。
 夢や空想の中だけでは幸せな時間を過ごしている華やかさ。
 やがて訪れる清らかな朝、それと共に現実は戻ってきて―――。
 曲調の変化は、恋をする者の感情の変化を歌い上げるためのものだ、と。
 『月森くんには難しい』と言われた理由がそういう意味なのかと思うと複雑な気分になる。

 ベンチに座りながら、何度目かのため息をつく―――と。

 屋上の隅で困ったような顔をしている日野の姿が見えた。
 調弦をしているのだろうか。
 バイオリンを構えて、少し鳴らして首を傾げる。その繰り返し。
 上手く音が決まらないのだろうか。
 楽器は繊細なものだから、気温や湿度の違いでも音が決まらないことがある。
 まして、日野はバイオリンの経験が短いから調整に苦労しているのかもしれない。

 「何か困っているのか?」

 俺が近くに居ることにも気づかない様子だった日野に、自分から声をかけた。
 ある程度の楽器の調整が出来ることは、演奏者として必要な事だ。
 だが、必要以上に時間がかかって練習時間が減るのは無駄とも言える。
 ………だから、特別に日野の事を気にかけた、と言う訳では………なく。

 「音が外れる?」

 事態を解決してくれる人物が現れた。
 声をかけた俺にホッとした笑顔を見せながら、日野は困っている理由を話した。
 調弦自体は通常通り出来るのだが、弾くとすぐに音が外れるのだと言う。

 「それは………」

 思い当たる原因が正しいかどうか確かめるために、彼女のバイオリンを借りた。
 一度決まったはずの音がすぐに外れるのは弦が劣化しているせいだと思う。
 だから、音が外れると言う一番細い弦のアジャスターを回した途端―――弦が切れて弾けた。

 「あっ!」

 驚いて声を上げたのは、日野の方だった。
 俺の方は弦がもたない事も考えていたから、やっぱりと思っただけで。
 ただ、切れた弦が当たった手の甲に痛みが走ったのが気になった。
 見ると、右手の小指の付け根あたりに血がにじんでいる。

 「月森くん、血が……」
 「大したことではない。弦が切れるなんて、今まで何度も……」

 劣化した弦が思いもかけず切れる事なんて、珍しい事じゃない。
 演奏に集中している時に、突然弦が切れた事もある。
 そう言っているのに―――以前から思っていた事だが、日野は時々、人の話を聞かない。
 慌てたようにガサガサと手荷物を探り始めて、小さなポーチから絆創膏を取り出した。

 「こんなのしか持ってなくて………!」

 申し訳なさそうに差し出したのは、女子が好みそうなパステルカラーの柄が入った物だった。
 必要ないと言っても、引っ込める様子がない。
 今日はため息の多い日だ、と思いながら仕方なくその柄入りの絆創膏を手に取った。
 だが、利き手ではない左手だけで貼りづらい場所に貼ろうとするから上手く行かない。
 見かねた日野が『貼らせて欲しい』と申し出て貼ったのがこの似合わない絆創膏だったという訳だ。
 
 

◇◆◇


 家に帰ってすぐ、模様などない普通の絆創膏に変えることも出来た。
 もともとそんなに酷い怪我だった訳でもない。
 剥がしてしまっても問題ない程度の傷だったのに、何故か剥がせずにいた。
 必要以上に心配してくれた日野の想いまで、捨ててしまうような気がして………。

 「………何度も、謝らせてしまったな」

 あの時の彼女の様子を思い出して、少し申し訳ない気持ちになる。
 自分のバイオリンの事で手間をかけさせたこと。
 弦が切れて怪我をさせてしまったこと。
 これから練習をしようとする彼女に、俺のスペアの弦をあげたこと。
 そのすべてに、いちいち『ごめん』と謝っていたのだ。
 別に故意にやった事じゃないから気にするなと言っても。

 バイオリニストに怪我を負わせた。
 彼女も同じ楽器を弾く者として、心配するのも無理もない事だと思う。
 ………だから。

 「明日、会う事があったら……大丈夫だと伝えた方が良いかもしれないな」

 もう一度、改めて。
 そんなことを思って、弾こうとしていた楽譜に再び目を落とす。
 初恋が主題の課題曲。
 その解釈はまだ自分のものとして降りて来ないけれど………。

 今日は彼女に申し訳ないことをしたかもしれないと思う憂い。
 明日、彼女に会えたら、その憂いを払えるかもしれない希望。
 朝が来るのが待ち遠しいような清々しさ。

 ―――その一連の心の動きが、課題曲の中の心の動きに似ているようで。
 少しだけ、光明が見えたような気が、した。
 


END



2013/04/05up : 春宵