■紅水晶

 彼女の足音がした―――気がする。

 神南高校管弦楽部の部室は、練習室としても使えるように防音仕様になっている。
 遠くから向かってくる足音が聞こえるなんて、物理的には難しいはずだ。
 だから『彼女が来る気配がする』と思うのも予感に近い不確かなことだが。

 「睦ちゃん、どないしたん?」

 唐突に立ち上がった俺に副部長が声をかけてくる。
 俺が部室に来た時にはすでに居て、1時間ほど経とうとする今も同じくソファーに横になっている。
 東金部長が現れるまではこの調子で“休憩”するつもりなのだろう。
 その“休憩中”の副部長に『紅茶を淹れようと思って』と答えたちょうどその時。
 部室の防音扉を重そうに開けて小日向さんが入ってきた。

 「おはようございます」

 ……ほら。
 彼女がもうすぐ来そうだ、という俺の予感は大抵当たる。
 『睦ちゃん、えらい鼻が利くんやねぇ』と笑った副部長に背を向けて、部室奥にあるシンクに向かう。

 「小日向ちゃん、おはよう。芹沢くんが紅茶淹れてくれるらしいから、座って待っとって」

 副部長が気だるげに起き上がって、小日向さんを隣に座るように招く。
 ごく自然に彼女との距離を狭めているところが、敵わないところだと思う。
 そして、さらに2人で話す時間を引き延ばす一言。

 「俺も小日向ちゃんと一緒に紅茶飲みたいなぁ」

 俺が彼女の分しか紅茶を淹れてないと、手元を見なくても察している。
 さすが、と言ったところか。
 紅茶は飲む時の温度が大事だから、と言い訳を準備して彼女の分だけを先に出した。

 「どうぞ、小日向さん」
 「ありがとう」
 「副部長の分は、これから淹れますので」
 「よろしく」

 彼女の笑顔を受け取って、シンクに向かって踵を返す。
 紅茶は淹れる人間の精神状態に忠実な味になる。
 副部長は、その微妙な違いが分かる人で、かつ、それを小日向さんの前で指摘しかねない人だ。
 ―――『平常心』。
 柔道を始める前のように息を整えて、副部長の分を淹れ始めた。
 小日向さんと副部長の話題は、小日向さんのヴァイオリンケースに付いたキーホルダーの事らしい。

 「それ、ヴァイオリンの形したキーホルダー?」
 「はい。律くんから貰ったんです」
 「……ああ、女子にプレゼントするんにもヴァイオリン選ぶあたりが如月くんやねぇ」

 そんな会話をしているところに紅茶を持って行って、一瞬、固まる。
 俺の方から見てソファーの左からヴァイオリンケース・小日向さん・副部長という並び。
 小日向さんを挟んでヴァイオリンケースに付いているキーホルダーに触れている副部長は、まるで彼女に腕を回しているように見えたからだ。
 ―――『平常心』。
 もう一度、心の中で唱えて、副部長の前に紅茶を置いた。
 そして、何事もなかったように小日向さんが来る前に座っていたソファーに戻り、会話に混ざる。

 「ヴァイオリンと一緒に付いているのは、天然石でしょうか?」

 副部長の手のひらに乗るキーホルダーには、ハート形でピンクの石が並んで付いていた。
 ヴァイオリン自体は形を忠実に模した木製で、飾り気のあるものじゃない。
 星奏オケ部部長の彼と話した機会はそれほど無いが、副部長が『如月くんらしい』と言ったのも納得だ。
 ただ、小日向さんを想って選んだことが、一緒に付いた小さい石から分かる。

 「ローズクオーツ…紅水晶やね、これ。……如月くん、分かってて贈ったんやろか」
 「分かってて、ってどういう意味ですか?」
 「ローズクオーツって確か、恋愛成就に効くパワーストーンやったと思うよ」

 副部長がそう言うと、小日向さんの頬が薄っすら赤く染まった。
 贈り主の態度か何かに思い当たるところがあったのか―――小日向さん自身に思い当たる想いがあるのか。
 どちらにしても。

 「この石みたいに小日向ちゃんの頬が染まったいうことは、恋を実らせたい相手が居るんやね。妬けるわー」

 まさに俺が思おうとしたことを、かぶるように副部長が言葉にする。
 あ、いや。
 小日向さんに恋を実らせたい相手が居るとして、俺が実際『妬く』のかどうか実感はないが。
 ともかく、小日向さんは副部長の言葉を聞いて頬どころか耳まで赤くして慌てた様子で否定する。

 「そんな相手なんて居ないですよ。今はほら、ヴァイオリンの事だけ考えていたいし」
 「……そうですよ、コンクールが終わるまでは演奏に集中していただかないと」

 間髪を入れず相槌を打った俺に、チラリと視線を向けた副部長が意地悪そうに眼を細めた気がしたのは、たぶん気のせいではないだろう。
 俺から小日向さんの方に目線を移した副部長が、彼女の耳元で囁く。

 「ローズクオーツってな、光に当て続けると色褪せることがあるんやて。
  誰かに恋い焦がれて紅水晶色に頬を染めたあんたを、俺の腕の中に隠してしまおかな?
  あんたが色褪せてしまわんように―――それ以上にこの宝石を他の誰の目にも入れんように」

 ……本当に、この人には敵わない。
 ただ、敵わないと言って諦めてばかりいる訳にもいかない。
 あからさまに溜め息をついた俺は、無粋だと分かっていながら副部長に言った。
 これが自分の役割だと言い聞かせながら。

 「……コホン。副部長もコンクールが終わるまでは、演奏に集中して下さい―――」



END



2016/12/01up : 春宵