■紅水晶

夏は良い。
もちろん暑さをしのぐ環境があれば、だが。
常々『早起きは三文の徳だ』と思っているが、夏は日が長いから三文以上の価値がある。
コンクール開催期間の今、有効に使える時間が多いのは有難い。
今朝も部室に来る前、やるべきことを2つも終わらせることが出来た。
幸先が良い朝は気分も上がる。

「おはよう、千秋」

芹沢が部室の冷蔵庫に用意している冷茶を仰いでいると、蓬生がやって来た。
『おはよう』も何も、もう11時近い。
飲み終えたら『遅い』と言ってやろう。
そう思っていたのに、蓬生の二の句を聞いて言葉を失った。

「千秋が小日向ちゃん泣かしたって、ほんまなん?」
「ぐっ……げほげほっ……」

ちょうど飲み込んだ茶が変なところに入って、盛大にむせる。
気分良く始まったはずの1日に暗雲が立ち込めてきた。
舌打ちしたい気分で喉の奥が痛むほど咳込んでから、ようやく蓬生に言葉を返した。

「……なんだ、それは」
「女子の間で噂になっとうよ。悪いことは出来んもんやね、千秋」
「アホか。俺がそんなヘマをする訳がないだろう……じゃなくて」

すでに噂になっているということは、それなりの何事かがあったはずだが―――
最近の小日向とのやり取りを思い出してみる。
蓬生も芹沢も居ないところで小日向と関わったとすれば、2人練習でもした時か。

「―――あ」

思い当たる節があった。
蓬生が言うような『泣かせた』話ではないはずだが、小日向の傷ついた顔を見た。
あの状況を傍から目撃されていれば、妙な噂になっている可能性はある。
考えているところに、察しの良い蓬生が探りを入れてきた。

「千秋のその顔。根も葉もない話でもないんやね。何があったん?」
「別に。何も……してない」
「ふーん。……小日向ちゃん、可哀想に。慰めに行って来ようかな」
「おい蓬生、俺をダシに小日向を口説こうとするな」

入って来たばかりの扉を開けて出て行こうとする蓬生を制して、ため息を吐く。
特別聞かせるような話でもないが、蓬生まで何も知らないとなると噂に尾ひれが付きかねない。
『あーあ、残念』とか言いながらソファーに座った蓬生に、あの時の事を話すことにした。


小日向と2人練習をしたのは3日前の午後。
場所は学校の練習室で、練習自体は何事もなく終わった。
いや、直すべきところがありすぎる、という意味では“何事もなく”でも無かったが。

ともかく無事に練習を終えて、2人で部室に向かっていた時のことだ。
隣を歩く小日向の方からキラキラと光が反射して、ちょうど俺の顔に当たった。
何だ、と思って見ると、小日向のヴァイオリンケースに付いたキーホルダーが光源だった。
木製でヴァイオリンを模ったものと、ピンクのハート石が付いている。
その石に窓から入る日射しが当たって光っていたようだ。

「それが如月に貰ったっていうキーホルダーか?」

蓬生と芹沢が話していたのを思い出して尋ねる。
石は確か紅水晶―――ローズクオーツだったか。
小日向は、何故知っているのかとでも言いたげに怪訝そうな顔をしている。

「蓬生と芹沢が知っている情報を、俺が知らないとでも思っているのか?」
「……えっ!?」
「フフッ。安心しろ、いちいちお前の情報を気にしてるほど、俺は暇じゃない」

冗談だと教えてやると、小日向の表情がホッとした笑顔になる。
『地味子の情報を把握したところで大して面白くも無いだろう』と揶揄えば、今度は怒る。
そういえば、練習中も欠点を指摘されて落ち込んだり、褒められて喜んだりしていたか。
―――良くも悪くも、俺の周りには直球で感情を見せるタイプの人間が少ない。
コロコロ表情を変える小日向が物珍しくて、悪戯心が働いた。

「それで? 紅水晶に恋愛成就を願っているってのは本当なのか?」

ローズクオーツが恋愛成就に効く石だという話をした時の小日向の反応が見物だった。
蓬生がそう話していたから、俺も突いてみた。
……思えば、それが失言の始まりだったんだが。
小日向の反応は、蓬生が言った通り見物ではあった。

「違います! 2人にもそう言ったのに……」

困ったように否定する小日向の頬が紅水晶色に染まる。
あの如月が、小日向のこの表情を知っていて石を選んだとも思えないが。
そもそも、アイツの頭の中に天然石の知識も、小日向の気を引こうという想いもありそうに無いが。
ヴァイオリンを弾く時とは違う“花”を見た気がして、一瞬、目を奪われた。

「本当に恋愛成就を願っているんなら、諦めろ。
 察しの良い俺や蓬生にも気取られない程度の想いなら、他の誰にも伝わることは無い」

我に返った時、口をついて出た言葉。
それは小日向に対しての悪意でも何でもなく……。
今思えば、ただ一瞬でも“地味子”に目を奪われたことに動揺していただけだったんだろう。
マズい、と思った時には、さっきまで微笑み混じりだった小日向の表情が固まっていた。
―――その傷ついた顔で思い知った。
小日向にはきっと本当に、想いを成就させたい相手がいる。


「それ、小日向ちゃんに言うたん?」
「……言うた」
「もしかして、演奏の欠点を指摘するみたいな言い方やった?」
「……たぶん」
「あーあ。……ほな、俺は小日向ちゃん、慰めて来るから」
「だから、俺をダシに小日向を口説くなと言っているだろう」

蓬生と交わす言葉は軽口だが、話しているうちにあの時の状況を思い出して落ち込んだ。
忘れるほど大したことでもないと思っていた自分に、さらに落ち込む。
俺の知らないところで泣いていて、それが噂になっていたとしたらあり得ない話でもない。
そう言えば、あの時から小日向と2人きりで話す機会は無かった。
避けられていた可能性もあるという訳か。

「女の子の機嫌取るのなんてお手の物やのに、何で小日向ちゃんには意地悪言うんやろな、千秋」

くすくすと笑いを含みながら蓬生が言う。
軽口を言う気もなくなっていた俺は、ただ思いついた理由を素直に言葉にした。

「小日向が他とは違うからだろう」

俺が手のひらで機嫌を操れるような、社交の場に出てくる女たちとは違う。
そういう意味で言った言葉をどういう風に受け取ったのか。
蓬生がまた笑いを含みながら切り返す。

「物珍しい言うてあんまり苛めたらあかんよ?」
「分かってる」
「今度泣かしたいう話聞いたら、千秋が止めても聞かんで慰めに行くから」

諭すように言ってから蓬生は冷蔵庫に茶を取りに向かう。
その背に苦笑を返した俺は、蓬生とは反対方向に歩いて扉のノブに手をかける。
―――この時間、小日向はどこで何をしているだろう。
小日向の想い人に心当たりはないが、これ以上、アドバンテージを遣る必要もないだろう。

「そんなことになる前に、詫びのひとつでも入れてくるさ」
「千秋、自分の失言をダシに小日向ちゃん口説かんといてな」
「……ハハッ、それは保証できないぜ、蓬生」



END



2016/12/11up : 春宵