■踊りましょう

調弦を済ませてヴァイオリンを構える。
最初に弾く曲は昨日の夜から決めていた。
今、練習室にいるのは、おれだけだけど……
息を整えて、聴く人が笑顔になる音をイメージして、弾きはじめる。

ヨハン・シュトラウス二世の『春の声』。

弾くのは久しぶりだし、こっちに楽器を持って来ていないから、どうかと思ったけれど。
高校時代、オケ部で年に一度は必ず演奏した曲を指がちゃんと憶えてくれていたみたいだ。
ウィンナ・ワルツの華やかな音楽が、迷うことなく奏でられていく。

今頃、香穂ちゃんもこの曲を聴いていたりするだろうか。

この曲を弾きたくなった理由を思い出して、つい笑みがこぼれる。
ウィーンと日本の時差は7時間。
おれにとっては午前の練習を始める時間だけど、香穂ちゃんのいる横浜では夕暮れの時間だ。
今日は星奏学院で文化祭が行われていて、そろそろ後夜祭が始まる頃だろう。
恒例のダンスに香穂ちゃんが参加しているかどうかは分からないけれど……
オケ部が必ず演奏するであろうこの曲を耳にしている可能性は高いと思う。
距離も遠いし、過ごす時間帯も違う。
そんな2人が同じ曲を同じタイミングで共有できたら、少しだけ距離が縮まった気がして嬉しい。
そう思って、昨日の夜からこの時間にこの曲を弾こうと決めていた。

『本当なら、香穂ちゃんに直接、この音を聴いてもらえたら良いのに』

久しぶりにしては上手く弾けているかもしれないと思うと、嬉しくて聴いて欲しくなる。
けれど同時に、どうせ同じ曲を共有するなら…と叶えられない想像をしてしまう。

『……欲を言うなら、一緒に踊れたら良かったのに』

高校在学中は一度も考えたことのない想いに戸惑って、ヴァイオリンの手が止まった。


後夜祭で男女ペアになってダンスを踊る、という星奏学院の恒例行事を初めて聞いた時。
そんな風に音楽を楽しむ環境があるなんて、なんて素敵な学校だろうと思った。
毎年オケ部に依頼されている演奏に参加して踊るみんなの姿を観るのを、おれ自身も楽しんでいた。
すでに引退していた3年生の時も、声をかけてもらって演奏する側に参加していた。
3年間、踊る方で参加しなかったことも、踊りたいと思う相手がいなかったことも、残念に思ったことはなかったのに……。

歳の差で一緒に参加できるタイミングがなかったことに。
手作りのコサージュを贈って「一緒に踊りましょう」って言えないことに。
もしかしたら誰かがその役を担っているかもしれないことに。
香穂ちゃんが、盛装をして誰かと一緒に踊っているかもしれないと思うことに。
胸の奥がチリチリする。

「……こんな気持ちじゃ……ダメだな」

ため息混じりに呟く。
今弾くどんな曲も、聴く人を楽しませる音にならないだろう。
気持ちを切り替えるために自分にとって楽しいことを考えても、浮かぶのは香穂ちゃんのことだ。
後夜祭で一緒に踊ることは叶わなくても、一緒に演奏することなら出来るかもしれない。
小さな希望で気持ちを持ち上げて、もう一度、ヴァイオリンを構え直す。

―――今度、一緒に『春の声』を合わせてみない?

練習が終わったら送るつもりのメールの文面を考えながら、弓を運ぶ。
鳴り出した音はイメージしたよりも少しだけ、軽く弾んで聴こえた気がした。



END



2019/04/30up : 春宵