■指輪
「ただいま」
その声に返答はない。
玄関に靴があったから、自分より先に帰っているはずなのは確かで、それなら何故返答がないのか。
不思議に思いつつ陽介はリビングへと顔を出す。
そこには、ソファに座り真剣な顔で何かを見ている鳴上の姿があった。
陽介の声が聞こえない程真剣に、一体何を見ているのか。
そう思い陽介は静かに近づく。
どうやら薄い冊子のようだと思いつつ覗き込み、驚く。
それは、所謂「婚約指輪」とか「結婚指輪」等の冊子だった。
そういうものを贈りたいと思うような相手に出会ってしまったのだろうか。
不意にそんな不安に襲われる。
ずっと共に、そう願っていたのは自分だけだったのか。
――そんな事はないのは分かっている。
互いに想いは確認して居るし、この先ずっと共にと互いに思っていることも分かっている。
けれど、鳴上が陽介に「指輪」を贈る事がないこともまた、分かっているのだ。
ならばそれは、誰に――。
「帰ってたのか。おかえり」
「……ただいま」
やっと気配に気づいたらしい鳴上が、冊子から顔を上げて言う。
それに対し躊躇いがちに返答をした事は、恐らく気付かれているだろう。
探るような視線を向けられる。
どうせ隠し事なんて出来るはずがないんだと、陽介は開き直り問う。
「なあ、それって――」
「ああ、これ、か……。こういうものをつけていた方が面倒くさくなくていいかと思って」
「――お前、また……」
「今回移動してきた若い女性社員がちょっと、な」
「彼女居ないんですか? とか聞かれたのか」
わざわざ高い声で女性らしい言い方で陽介は問う。
嫌そうな顔をして陽介を見て、鳴上は答えた。
「まあ、そんなところだ」
「毎年毎年大変だな、お前」
「一緒に暮らしてる人が居ると言ったんだが……」
「でも、指輪してないってことは、結婚してないって事ですよね? とか」
「良くわかるな」
「何回目だと思ってるんだ」
「……だからもういっそ、指輪でもしておこうかと」
「面倒になったのか」
「なるだろ、いい加減」
溜息を一つついて、心底面倒くさそうに言う。
女性達の気持ちも分からなくはなかった。
こんな優良物件、いつまでも残っている訳がないのだから。
手に入れたいと思ったならば形振りなど構っていられない。
実際もう既に残ってなどいないのだけれど。
ほんの僅か覚えた罪悪感を誤魔化すように、陽介は言う。
モテるなぁ、などとからかうように言う陽介を嫌そうに見て――そうして何か思いついたのか鳴上はにやりと笑う。
嫌な予感がして、自室へと向かおうとする陽介を引き止め、鳴上は告げた。
「お揃いでつけるか」
「はあ?」
「そういう指輪だろ、これ」
冊子を指さして、そんな事を言う。
この先もずっと変わらずに共に在るつもりで居る。
だからと言って、男同士でお揃いの指輪をつけるとか――その状態で稲羽には帰れない。
当時の仲間達ならば、恐らくは受け入れてくれるだろう。問題はそこじゃない。
菜々子ちゃんや堂島さんに合わせる顔が、ない。
まして菜々子ちゃんは、鳴上に対して好意を持っている。
それを知っていて、そんな事出来るはずもなかった。
ショックを受ける菜々子ちゃんなんて見たくない。
あの当時に比べれば大きくもなったし、大人っぽくもなった。
それでも菜々子ちゃんは陽介の中でも、可愛い小さな菜々子ちゃんで、守るべき存在だ。
「……」
「嫌なのか?」
「イヤって訳じゃ……」
陽介の戸惑いも何もかも、分かった上で敢えてそう問う。
嫌だなんて言えるはずもなかった。
陽介だって女性から、好意を向けられることはある。
ただ軽く流す事が出来るのだ。
それで済んでしまう。
でも鳴上はそうはいかない。
かなりはっきりと断るらしいが、相手が中々諦めない。
押せばなんとかなると思っているのか、とにかく相手の押しが強い事が多く、毎度かなり疲弊させられる。
陽介も何度かその場面を見ているが。
全く表情を変えずにはっきり断る鳴上に、それでも諦めずに押してくる女性たちが、怖いとさえ思う。
期待を持たせるような事も全くしていないにも関わらず、中々相手の女性が諦めてくれないというのが、いつものパターンだった。
それに対していい感情なんて持つはずがない。
だから余計に、嫌なんて言えるはずがない。
嬉しいとまではさすがに思わないが、何よりも戸惑いが大きかった。
「――陽介がつけるつけないはどっちでもいいから、取り敢えず買うか」
「どっちでもいいって……お前はどうするんだよ」
「仕事に行くときはつけて行く。本当にいい加減面倒だ」
陽介の好きなのを選べ――と冊子を渡される。
結構長い間見ていたらしく、選ぶのさえ面倒になったんだな、と思う。
こういうのを選ぶのは、陽介の方が得意だ。
仕事につけていくなら、出来る限りシンプルで邪魔にならないのがいいよな、なんて思いながら陽介は冊子をめくった。
陽介が選んだ指輪をつけて、仕事に行く鳴上を見送る。
今日は陽介は休日で、家にいるのだ。
なんか、いいかも。なんてちょっと思う。
結局お揃いで買った指輪を、陽介がつける事は殆どないが。
鳴上は仕事に行くときは必ずつけていく。
流石にこれで、面倒ごとは減るだろう。
その代わり、職場で同僚にからかわれて、それはそれで面倒だったらしいが。
仕事に行く鳴上を見送った後、ポケットから指輪を取り出す。
じっとしばらく見つめて――再びポケットにしまう。
なんとなく気恥ずかしくて、陽介がそれをつける事はないが、本来の目的は果たせているのだから、それでいい。
形になるものがなくとも、互いの関係は変わらない。
それでも、こんな風に形になるのもまた、いいのかもしれない。
――ずっと変わらず共に、これからも。
END
2023/04/17up : 紅希