■手を伸ばせば、すぐ其処に
撫子を彼女の自宅前まで送り届けて、彼女が家へと入るのを見届けるのがいつも彼女と会った時の鷹斗の日課だった。
鷹斗から離れて自宅へと向かって歩き始めた彼女の腕を、徐に鷹斗は掴み引き寄せる。
「鷹斗?」
さほど抵抗もなく、腕の中に戻ってきた温もりに、ほっと安堵の息を吐き出した。
手を伸ばせばすぐ其処に、確かにある温もり。
こんな風に腕の中に捕らえる事も容易いくらいの距離に確かにあるのに――遠い、と感じるのは彼女が本当に稀にだが、鷹斗を通して別の”誰か”を見ている時があるから。
それが誰なのかなんて知らないし、知りたくもない。
きっと知ったら耐えられそうにないから。
撫子を失う事だけは、どうしたって出来ない。
彼女の居ない世界なんて要らない――そう、本気で思っているから。
だから、彼女が稀に鷹斗を通して見ている”誰か”の正体なんて知らないし、知ろうとも思わない。
だからと言って何も思わない訳でもない。
一番最初にそれに気付いたのは、小学校六年生の時。
もう十年以上前の事なのに、鷹斗はあの時の事を鮮明に覚えていた。
ただ、あの時彼女を攫おうとした人物の顔は、どうしても思い出せないのだけれど。
それともう一人、当時の鷹斗達に課題をやるように言った先生の顔と名前も、思い出せない。
鷹斗だけじゃない、未だに交流のあるCZメンバーの誰一人、先生の顔と名前を覚えていなかった。
彼女が攫われて、自分達以外の人達が動かなくなって、そして、気付いたら確かに止まっていたはずの人達は動いていて。
攫われたはずの彼女が、鷹斗に抱きついて泣きだした。
それが鷹斗と撫子が小学校六年生の時に起こった出来事。
そう、あの時からだ。
彼女が鷹斗を通して別の”誰か”を見るようになったのは。
CZの他のメンバーに対してはそう言う事はなかった。
そして、彼女が攫われたあの事件以前にもそう言う事はなかった。
あの頃は頻繁にあったそれは、最近では殆どないけれど、今日久々にあったのだ。
一度聞いてみた事があるが、彼女は誰を見ているかも分かって居ないし、それどころか小学校六年生の時にあったあの出来ごと自体、覚えていない。
中学生の時車に轢かれて、鷹斗が助けた事は覚えているというのに。
確かに、中学の時の出来事は、鷹斗が駆け付けるのが遅かったら彼女は――。
鷹斗が間に合ったのは、悪戯としか思えない「十年後の海棠鷹斗より」という手紙のお陰だ。
念のためと思い指定された日時に指定された場所へと行けば、手紙にあった通り彼女が車に轢かれて。
どうにかギリギリ助けて――とは言え彼女は怪我を負ってしまったけれど。
そしてその後、鷹斗は手紙で忠告された通り、一切の研究から手を引いた。
そして今鷹斗は、以前鷹斗と撫子が通っていた小学校で教師をしている。
事故の事を忘れることなど出来ない事も分かるが、小学校六年生の時の出来ごとだって、そう簡単に忘れられるはずもない事のはずだ。
自分達以外の人達の時間が止まり、そして彼女は攫われたのだから。
あの時一緒に居た理一郎も、あの時の事を覚えている。
だからあの出来事は確かにあった事なのだ。
腕の中身じろぐ気配がして、我に返る。
視線を落とせば、撫子が心配そうに見上げていた。
「鷹斗? どうしたの?」
「あ、ごめん。何でもないよ」
言いながら、腕の中に捕らえた彼女を解放する。
帰したくないと思うのはいつもの事だが、今日はいつも以上にそう思う。
だからこそ、彼女を解放しないと、本当に帰せなくなりそうだった。
小さく息を吐いた鷹斗に気付いたのか、撫子が心配そうに問う。
「……本当に、大丈夫?」
「大丈夫だよ。ほら、帰らないと。もう、遅いから」
笑みを浮かべてそう鷹斗は告げる。
そう言った感情の制御は、得意だった。
得意、というよりは、彼女に出会うまで感情というものがなかったと言っていいから。
楽しくなくても笑う事など造作もない。
とは言え、彼女相手にはそれもあまり通用しないのだけれど。
じっと探るような視線を向けて、「仕方ないわね」と撫子が呟く。
ああやっぱりと思うが、どうやら時間も時間なので、彼女も追及は諦めるつもりらしい。
良かったと思いながら、彼女の姿が家の中に消えるまで見送って、踵を返した。
部屋に戻り、ベッドへと寝転がる。
天井を見つめて、溜息を一つ零した。
今日は昼間、CZのメンバーで集まって、タイムカプセルを掘り起こした。
本来ならもっと早くに掘り起こすはずだったそれの存在を、誰一人忘れてはいなかったのに、誰かが言い出すだろうと皆それぞれ思っていて、今日になってしまったのだ。
久しぶりに、メンバー全員が集まった。
せっかくだから皆で飲みにでも行こうかと言ったのだが、何故か寅之助が激しく拒絶したのだ。
お前達とは二度と飲みたくないと言うのが彼の言い分だが……理由が良く分からない。
俺、何かした? と聞いても寅之助は答えてはくれなかったから。
お前達、と括られた理一郎、終夜、鷹斗は顔を見合わせる。
鷹斗は終夜とは二人で飲んだ事はないが、理一郎とは何度かある。
だが、その時の理一郎がどうだったかは、良く覚えていない。
それは理一郎も同じのようで……結局良く分からなかったのだ。
いや今はそんな事はどうでもいい。
結局彼らとはタイムカプセルを掘り起こした後少しだけお茶を飲みながら話して、そして別れた。
その後鷹斗は、撫子と二人で過ごしていた。
CZメンバーに会ったのが原因か、タイムカプセルを掘り起こしたのが原因かは分からないが。
久しぶりに、撫子が鷹斗を通して別の”誰か”を見ていた。
手を伸ばせば触れられる程近い距離に居るのに、直ぐ傍に居るのに。
彼女が遠くへ行ってしまったような気がして――もう二度と彼女に会えなくなる気がして。
それはあの時、小学校六年生のあの事件後から何度も思った事。
苦しげな、今にも泣き出しそうな顔をして、自分の向こうに一体誰を見ているのか。
分からないが、ただ一つ分かるのは。
彼女がその”誰か”を大切に想っているのだと言う事。
だから、不安になる。
いつかその”誰か”に彼女を奪われるような事があったなら――その時は。
その時は……何が何でも、奪い返せばいい。
どんな手を使っても、何を犠牲にしても。
彼女以上のモノなんて、鷹斗にとっては何一つないのだから。
世界さえも、彼女が居なければ何の意味もない。
誰よりも何よりも、鷹斗にとっては撫子が大切なのだから。
そう言えばあの時もそうだったなと思い出す。
「十年後の海棠鷹斗より」という手紙を撫子に見せた時も――いや、あの時が一番、撫子は鷹斗を通して別の”誰か”を見ていた。
あの時の切なげな表情を忘れる事など出来ない。
本人はどんな表情をしていたのか全く気付いていなかったようだけれど。
――あの手紙に関係のある人物なのだろうか。
だとしたら、十年後の海棠鷹斗……そう、丁度今の自分が、あの手紙を貰った時の十年後くらいの年だ。
小学校六年生の時の出来事と、そして「十年後の海棠鷹斗」からの手紙。
何故かは分からないが、その二つの出来事が全く無関係とは思えなかった。
――金色の髪の男と、白い髪の男。そしてその腕に抱えられている小学生の撫子。
『――先生』と誰かが呼ぶ声。
振り返った先生の顔と、撫子が攫われた時に居た金髪の男の顔が重なって――途端に、浮かんだ全てが霧散する。
思い出し掛けた何かは、再び沈み込み、もう一度浮かび上がる事はなかった。
はあ、と鷹斗は溜息を吐き出す。
撫子が攫われた事は覚えているし、あの時自分達以外の人達が止まってしまった事も覚えているのに。
何故、撫子を攫った人物の顔を覚えていないのか、思い出せないのか。
そして、鷹斗達に課題を与えた先生の顔と名前も。
何故忘れてしまったのか、思い出せないのか。
何となくそれらが、撫子が稀に自分を通して誰かを見ている事に関係あるような気がして。
けれど、どうしても思い出す事が出来なかった。
傍に居てと、手を伸ばせば届く距離にずっと居てほしいと、願う。
彼女の居ない世界なんて、要らないし、何の意味もないのだから。
END
2012/03/29up : 紅希