■ひとつ

久しぶりに五月晴れとなった朝。
気懸りだった川の様子を見るために、早々と支度を整え屋敷を出た。

奥州に春が訪れるのは遅い。
ようやく雪解けが訪れたところに追い打ちのように五月雨が降り、一気に川が増水する。
作物が育ち始めたこの時期に川が溢れることでもあれば、備えがあっても厳しい奥州の冬を越せぬ者が増えてしまう。
治水を差配するのは御館だが、この目でも見ておくに越したことはないだろう。
今日の晴れ間を逃せば次が何日後になるか分からぬ。
折良く差し迫った用もなく、遠出をしても差し支えがない好機だった。

近隣で堤が壊れそうだとか川岸が崩れそうだという話は聞かぬ。
ならば人の目の届きづらいところ―――上流を見るべきかと当たりをつけて川沿いに馬を駆った。
雨の降り続く間、厩に籠らせきりとなっていたせいか、急かさなくとも馬の脚は速い。
禍となるような異変がないか確かめてくるだけだと言って従者は連れて来なかった。
川の様子に目を配りながらとはいえ、何処を見て回ろうと煩わしい気遣いなど要らぬはずだったのだが。
ちらちらと後ろを気にしながら進む羽目になっているのは、やや後ろ気味に馬を並べて九郎がついて来ているからだ。


「ずいぶん早くに出かけるんだな、泰衡」

九郎が現れたのは、身支度を整え厩で馬具を着けている時だった。
取次ぎも案内も乞わなかったようだが、迷いなく俺の方に近づいてくる。
その足音を聴けば、顔など見る前から誰なのか分かった。

「早いと言うならお前こそ、ずいぶん早くから人を訪ねるのだな、御曹司」

出かけようとしていたのを足止めされて、苛立ちを籠めながら言う。
敢えて言い方を真似て、多少の皮肉を織り交ぜてみたとて、無駄なことだったようだ。
九郎はさして気にした様子も見せずに纏わりついてきた。

「久しぶりに雨が止んだからな。晴れているうちに出かけなければと思ったんだ」

五月晴れを幸いと思って出かけてしまおうと思った、と言うだけなら俺も大差ない。
だが、それで向かった先が何故ここだったのか……訊けば余計に苛立つことになりそうで、やめておいた。


そうして出がけに顔を合わせてしまったのが不運だった。
俺も一緒に行っていいか、と口では問いながら俺の答えを聞く気などない。
供は要らぬと撥ねつけられた従者たちも、九郎が共に行くのならと嬉々として馬を用立てる。
今日の五月晴れが天の恵みか気紛れかは知らぬが、道行きに雲がかかったような心持ちになった。
走り始めてからはなるべく九郎の方を気にかけぬよう、北に向かう馬の左側、川の方に集中しながら駆けた。

だが、遠駆けなどをすればいつも楽しげに心躍らせる九郎のことだ。
目を向けぬよう、耳を傾けぬようにしていても、目につき耳に障るに違いない。
気にせぬように気にせぬようにと思えば思うほど、要らぬ勘繰りをしてしまいつい横目に様子を窺ってしまう。

「この辺りも危ういところはないようだな」
「……あ、ああ」

不意にこちらを見て言った九郎と目が合いそうになって、とっさに顔を背ける。
俺が浮足立ち、九郎がまともに川の様子を気にかけているのでは立場が逆様だ。

「奥州の川の様子など、御曹司にご心配いただく筋合いもないと思うがな」

居るべき座所を盗られたように感じて、皮肉気な言葉が口をつく。
お前は奥州の者ではないのだからせいぜい自分の身でも案じているがいい。
余計なことはするなと言外に言ったつもりだが、九郎は今朝と同じようにまったく意に介さない。

「そう言うな。一人では見つからぬ異変も二人なら見つかるかもしれないだろう」
「禍となるやもしれぬものを失せ物のように言うな」

何が可笑しいのか笑いを含みながら言う九郎を、眉をひそめて窘める。
その時、目の端に見えた川の様子に異変を感じた。
水が溢れそうだとか、堰が切れそうだとかいう明らかな異変ではない。
いつもの景色と何か違う、と感じただけなのだが……。

「―――増水で中洲が沈んだか」

馬を止めしばらく考えて、ようやく思い当たった。
この辺りから見下ろす川は、中洲を挟んで二つの流れに別たれているはずだった。
それが、水かさが増したせいで中洲が沈み、ひとつの大きな川となっている。

「俺は初めて見るが、中洲がある場所なのか?」
「多少の雨では沈んだりせぬ大きさの、な。それだけ水かさが増えているということだ」

中洲が沈んだところで川全体が溢れるほどの勢いではない。
だが、まだ上流の山までは遠い場所だ。
さらに上の方では山が崩れるなどの禍に繋がるほど降っているのかもしれない。
そうだとすれば、崖崩れや流木の備えもしておいた方がいいかもしれぬ。
この目で見に来たのも無駄ではなかったと思っていると、隣に馬を並べた九郎も思案気な顔をしている。

訊いたら訊いたで苛立たしくなるのは分かっている。
だが、九郎が何かを思い立って動けば面倒事が増える。
どちらに転ぶにしても先に知っておいた方がいいと思って尋ねた。
―――禍への備えは、早いに越したことはないのだから。

「何を考えている?」
「……お前に言えば叱られそうなことを考えていた」
「何だ」
「多少の雨では沈まない中洲が沈んでいるってことは、いつもより水害が起きやすいってことだろう」
「そうだが」
「その川を見て、羨ましいと思っていたんだ。別れた川が合流して、ひとつの流れとなっていることが」

ただ聞けば奥州に起こる禍の種を讃えているようで、確かに叱りつけたくはなる。
だが、九郎の立場を思えば分らぬでもない。
九郎の頭には、生き別れた母や兄・頼朝の面影でも浮かんでいるのだろう。

「クッ……」

九郎の想いを薄々分かりながら、それでも嘲笑った。
上から流れてくる水の勢いが強いうちならば、こうしてひとつの川として在ることが出来るだろう。
だが、いずれ水が引けば元のように別たれた二つの流れとなる。
あるいは、どちらか一方の川筋に飲み込まれて、元あったもう一つの川は無かったかのように涸れる。
鼻先を並べて共に海まで行きつくことなどない。
勢いのあるうちだけはその力を利用され、やがては打ち捨てられ涸れるやもしれぬ誰かの行く末のように。

「叱られると思いながら言ったのに、笑うのか」
「……御曹司殿は、長雨でも異変がなく恙ないようだと思っただけだ」

今度の皮肉には思うところがあったのか。
九郎は「誉めてないだろ、それ」などと言って拗ねた顔をする。
冷ややかな目で見返しながら、ひとつとなった“川”がいずれ別れる行く末を想った。

一時ひとつとなりいずれ別れる道があるやもしれぬのは、九郎と頼朝ばかりの話ではない。
九郎を庇護することで源氏方の流れに乗った奥州も、いずれ別々の勢力として源氏と刃を交える日が来るやもしれぬ。
―――九郎と、この俺も。

この御曹司は、御館の息子である俺が、自分とともにひとつの川となって進むものと思っていることだろう。
だが、俺と九郎の間には、多少の増水でも沈みはしない中洲があり流れを隔てている。
二つの川がひとつの流れとなることは、決してない。
もしも、ひとつの川となることがあるとすれば、どちらかの流れが無かったかのように涸れる、その時だけだ。

その光景を目の奥に描きながら、改めて胸に刻んだ。
禍への備えは、早いに越したことはない……と。



END



2023/07/17up : 春宵