■おかえりなさい

『おかえりなさい』
『おかえりなさい、お兄ちゃん』
『おかえり、お兄ちゃん』

それらの言葉は、総司が一年だけの予定で稲羽へと来て、母親の弟だという堂島がいるこの家に来てから、彼の娘である菜々子から掛けられた言葉。
この家に帰って来ると必ず掛けられたその言葉は、菜々子との距離が近付くにつれて気安いモノへと変わって行った。
今では彼女にとって総司は兄で、総司にとっても菜々子は妹だ。
だが今は、その言葉がない。
もう一ヵ月程、その言葉を聞いていないのだ。
総司が帰って来ると必ず声を掛けてくれた菜々子は、今入院している。
一度は心臓が止まって、その結果暴走した仲間を止めたのはほんの数日前だ。
陽介に、「呆れるほど冷静」だと言われて、本当にその通りだと思った。
だが本当は、別に冷静だった訳じゃない。
妙に感情が冷めていたのは事実だったが。
あの時は、後悔とそして自分自身への怒りで、逆に感情が冷めたのだ。
何故――そんな事は、菜々子が攫われてから何度も思った事だ。
あの日、堂島に渡された差出人のない手紙。
以前にも一度届いたモノと同じそれを、何故不用意に堂島の目の前で開封したのか。
堂島は、刑事の勘なのか、総司が連続殺人事件に関わって居ると疑っていた。
そんな堂島の前で開封すればどうなるか、少し考えれば分かったはずだし、全く同じ差出人のない手紙が少し前にも届いていたのだ。
しかもそれは、脅迫状だったと言うのに。
開封したそれは、内容こそ違えどやはり脅迫状だったのだ。
あの時あの脅迫状を、堂島の前で見なければ、菜々子が攫われるのを防げたかもしれないのだ。
脅迫状を見た堂島が総司を警察へと連れて行って、総司は取り調べ室へと入れられた。
携帯も取り上げられ、仲間と連絡を取る事さえ出来なくなった。
そして、独り家に残された菜々子はその間に攫われた。

雨の日の午前0時に電源の入っていないテレビを見ていると、映る人影。
運命の相手だと言われていたそれが、テレビの中に放り込まれる人間が映るのだと気付いたのは、もう随分前の事だ。
昨夜も雨だったため、自分も、そして仲間もマヨナカテレビを見ている。
だが、昨夜テレビに映った人影は不鮮明で、誰だか分からなかった。
そのため、今日もう一度確認する事になっている。
だから、午前0時に、総司も取調室の小さなテレビで、マヨナカテレビを見て驚愕した。
不鮮明な人影だったが、それは間違いなく菜々子だ。
毎日見ている姿を、見間違えるはずがない。
けれど、此処から出る事も、仲間に連絡を取る事も出来ない状態では何もできない。
途方に暮れていれば、陽介達が取調室へと駆けこんで来た。
総司の携帯に電話したが出なかった為、家に電話して菜々子に事情を聞いていたらしい。
だが、マヨナカテレビを見た後に再度家に電話したら、誰も出なかったのだと、今直斗が確認に行っているのだと言われて、どうして昨日のうちのあの人影が菜々子だと気付かなかったのかと後悔した。
毎日見ているその姿を、何故分からなかったのかと。
あの時の事は、忘れられない。
菜々子が居なくなったと聞いた時には、一瞬頭が真っ白になったのだ。

テレビの中の世界へと菜々子と菜々子を攫った犯人を追いかけて行った。
どうにかシャドウを倒して、意識を失くした菜々子を抱きとめて。
あの時、意識を失くした菜々子の身体の軽さに、一瞬絶望を感じたのを覚えている。
意識を失くした菜々子を抱きとめたまま動かない総司を、早く外に菜々子を連れて行かないとと急かしたのは、仲間達だった。
正直今まで、何人もこのテレビの中の世界から助け出して来た。
だが、此処まで焦った事も、動く事さえ出来ない程絶望したのも、初めてだった。
絶対に助けると意気込む陽介達と違い、総司にはそこまでの意気込みはなかった。
いつだって冷静に状況を判断し、最善と思われる方法を選んで来た。
早く助けたいと急く仲間を制した事も、一度や二度じゃない。
そのくらい、冷静でいられたのだ、今までは。
現実の世界で霧が出るまでに助けられなければ、テレビの中に放り込まれた人物が自分の影に殺されるのは分かっていたし、テレビの中の世界へと行けるのが自分達しか居なかったから、義務感のようなモノで助けに行っていただけだった。
だが今回だけは、菜々子の時だけは、違った。
自分の不注意が招いた事だと言うのもあるが、それだけ菜々子は総司の内深くに食い込んでいたのだろう。
「おかえり、お兄ちゃん」という言葉がないだけで、この場から動く事さえ出来なくなるくらいには。
あんなに焦燥感に囚われたのも、テレビの中の世界へと行くようになって初めてだろう。
だから、助けられて良かったと思っている。
一度止まった心臓も動き出して、菜々子の容体も今は安定している。
それは良かったと思うのに、後悔は薄れる事はない。
もしもあの時――何度も思った事をまた思って、思わず苦笑した。

カレンダーが掛けられている横にある壁に寄り掛かる。
そのまま壁に背を預けたまま、座り込んだ。
何もする気になれない。
堂島も怪我をして入院しているため、今この家に居るのは総司独りだけだ。
昨日までは出来るだけ家に居ないようにと、帰って来て直ぐにアルバイトに出掛けていた。
だが今日は、それさえもする気になれない。
誰も居ない、まるで違う家のように感じる此処は居心地が悪くて仕方なのに、出掛ける気にもなれない。
そのくらい疲れ切っていた。

誰も居ない家の玄関の鍵を開けて中に入って――そんな生活は、此処に来るまでの間は当たり前だったと言うのに。
当たり前に掛けられていたその言葉が、向けられていた笑顔がないだけで、違う家のようにさえ感じる。
寂しいというのが一番当てはまる感情だろうか。
両親は共働きで忙しい人達だから、独りで夕食なんて、此処に来るまでは当たり前で、家の中に独りで居る事も、当たり前の事だった。
それなのに、何故こんな場所に座り込んで、ぼうっとしているのか。
制服のまま座り込んで、動く気にもなれない。
正直、菜々子が攫われてからあまり眠れない日々を送っている。
そのせいで疲労がピークに達したというのもあるだろう。
それだけじゃない事も分かっているが。
これ程までに堪えているとはな、と苦笑する。
いつもならば菜々子が見ているテレビの音が聞こえるはずなのに、今この家は静まり返っている。
本当に違う家みたいだ、とまた思い、溜息を吐きだした。
正直、疲れていた。
あまり眠れていないせいもあるが、安らげる場所がない。
彼女の存在が、どれ程癒しになっていたのか思い知らされる。
色々思考を巡らすのも億劫になって、思考を閉じる。
そのまま、目を閉じた。

叫ぶような音と、身体を揺すられる感覚に、我に返る。
寝ていた訳ではないが、閉じていた目を開く。
そうする事で閉じていた思考も開かれて、現実へと全てが戻って来る。
そうして見えたのは、焦ったような顔で自分を覗き込む陽介の顔だった。

「陽介。何してるんだ」
「お前なあ……」

呆れたように吐き出して、焦ったと言いながら陽介はその場に座り込む。
行き成り耳に叫ぶような音が飛び込んできて、次いで身体を揺すられているのに気付いた。
そんな状態だから、何故陽介が焦っているのかも、呆れたような口調なのかも分からない。
ただ一つ分かったのは、先程の叫ぶような音は、陽介の声だったのだろうと言う事くらいだ。

「何度も呼び鈴押しても返事ないし、居ないのかと思えば玄関は鍵あいてるし、お前の靴は玄関にあるし。心配になって中に入ってみれば、お前はこの状態だし」

何度呼んだと思ってるんだよ、と恨めしげに陽介は言う。
ああ、心配掛けたのかと分かって、総司は言葉を紡ぐ。

「それは、悪かった。で? 俺に何か用事があるんじゃないのか」

言いながら総司は立ちあがる。
釣られるように陽介も立ちあがって、あからさまに呆れたように溜息を吐き出した。
睨むように総司を見据えて、陽介は無言で総司の腕を掴み歩き出す。
一体何なんだと思いながら引っ張られるままに歩けば、辿り着いたのは自室だった。

「良いから寝ろ。お前、ろくに寝てねえだろ」

畳まれた布団を指差し、顔色悪いぞと陽介は告げる。
そうしてもう一度溜息を吐き出し、「まあ、気持ちは分かるけどな」と小さく呟いた。
その言葉のせいなのか、張り詰めていた何かが緩んだ気がした。
崩れ落ちるようにソファに座りこめば、陽介の焦ったような声が響く。
それに微かに笑えば、今度は不機嫌そうな声が響いた。
ふぅ、と息を吐き出して、総司は言葉を紡ぐ。

「陽介に見抜かれるようじゃ、俺もまだまだ、だな」
「どういう意味だよ、それは」
「そのままの意味だ」
「ホントお前、いつも通りだな」
「まあな。でもまあ、感謝してる」
「そりゃどうも」
「……あまり眠れていないのは事実だしな。――何かこの家、今までと違う家みたいに感じるんだ」
「菜々子ちゃんが居ないから、か」
「そうみたいだな。家に帰って独りなんて、慣れてるはずなのにな」

言いながら総司は立ちあがる。
ソファから立ち上がった総司を、陽介はじっと見据えた。
なんだ? と思い声を掛けようとした途端、目の前で両腕を広げる陽介の姿が見える。

「俺の胸を貸してやろう、相棒」
「……」
「って、何でひくんだよ、そこで。お前が俺にやったんだろうが!」
「素直に借りたのはお前だろ」
「そうだけどよ」

はあ、と溜息を吐き出して、座り込む陽介を総司は見下ろす。
途端に眠気を感じて、微かに眩暈までしてきて、総司は再びソファに沈み込んだ。

「悪い、陽介。……寝る」
「はあ?」

驚き声を上げ立ち上がるのを見て、そのまま目を閉じる。
背を預けられる親友の慣れた気配に、癒されるのを感じていた。
もう遅いし泊まって行けと陽介に言おうとして、けれどそれを口に出す事は出来なかった。

寝ると言ってソファで眠ってしまった相棒を、陽介は呆れたように見下ろす。
泊まって行け、とその口が動いたのを見たような気がした。
制服のままソファに沈み込み眠ってしまった相棒を、眺める。
林間学校で同じテントで眠ったから、無防備な姿を全く見た事がないとは言わないが。
テレビの中の世界の探索でリーダーをしているだけあって、いつだって冷静で、無防備な姿を晒す事も殆どない。
動揺した姿を見た事も、殆どなかった。
的確に仲間に指示を出し、仲間皆が頼りにしている。
そのリーダーが、焦った様子を見せたのが、菜々子が攫われ、助ける為にテレビの世界を探索している時だった。
いつもならば、仲間の体力や疲労の度合いにまで気を配って、大丈夫だと言い張る仲間を制し探索を切り上げるはずの総司が、陽介が一度戻った方が良いと言うのにも耳を貸さず進もうとしたのだ。
あんな事は初めてだったよな、と陽介は眠る総司を見下ろしながら思う。
どうにか説得して一度戻ったのだが、あの時の悔しそうな相棒の顔は忘れられない。
菜々子を大切に思っているからというのもあるが、どちらかと言えばあれは後悔から来たものだと知ったのは、菜々子を助けた後の事だった。
どうにか助け出し、ぐったりとした菜々子を抱えた相棒が「ごめん、菜々子」と呟いたのを聞いた者は、恐らく陽介だけだろう。
あの時の光景も、後悔が滲む声も、忘れられそうにない。
そのせいで、こんな風に無防備な姿を晒しているというのならば、尚更だ。

いつだって前を走る背を、追いかけていた。
隣に立ちたいと、同じ位置に立ちたいと、いつだって思っている。
そんな相棒の無防備な姿に、信頼されているのを感じて、何となくくすぐったいような気持ちになる。
だが、嬉しかった。

「どうするかね」

家に帰るつもりではいたのだ。
だが、確かに時間は遅い。
それに、今から帰れば、「遅い」とか「何をしていたのか」とかクマが煩そうだ。
「センセイの所に行くのなら、クマも行くクマ」と言って着いて来ようとするのをどうにか振り切って来たのだから。
泊まっていくかと思い、ソファへと座る。
少し考えて、陽介は立ちあがった。
部屋の隅に畳まれている掛け布団を手に取る。
そうして、眠っている相棒の直ぐ隣、触れあう程の距離に座って、布団を掛けた。
今は12月。
いくらなんでも布団も掛けずに眠れば風邪をひく。
二人で一枚の布団では寒いが、触れあう程の距離から伝わる体温で結構暖かい。
総司が起きていればいいが、陽介が家探しする訳にもいかないのだから仕方ない。
明日の朝、この状態を見た相棒がどんな反応をするか見ものだと思いながら、陽介も目を閉じた。



END



2011/03/09up : 紅希