■祈り
相変わらずだな、とイエスは墓の前に立って思う。
あれから一年。
来栖恭平が死んでから、今日でちょうど一年だった。
ここに来るのは何度目になるだろうか。
一番最初に来たのは、TYBが終わってから一か月程経った時。
あいつと、チヒロと一緒に来たのだ。
その時も花やらお供え物やら沢山あったが、今でもそれは変わらない。
これだけの奴に感謝されてたっていうのに、本当にあいつは、恭平はバカだとやはり思う。
今でもあの瞬間の事を思い出す。
あの時、恭平を刺した感覚も、覚えている。
忘れることなど恐らくないだろう。
じっとしばらく墓を眺めて、一歩墓に近づく。
何とも複雑な心境だった。
此処に来る度に思う。
この手で恭平の命を奪ったからというだけじゃなく、この墓の中には何もないと知っているからだろうか。
墓の中に遺骨があったとしても、ここに恭平が居るはずはないが、それでもどうしても居ないと、何もないと思ってしまう。
イエスが恭平の命を奪ったあの瞬間、殺人鬼となってしまっていた恭平は、跡形もなく消えてしまったのだ。
ウイルスとそのウイルスを殺すワクチン。
チヒロと、恭平はそんな関係だった。
いずれ自我もなくなり、人でさえなくなると知っていて、それでも恭平は世界を救えると信じて、ワクチンになったのだ。
まさか殺人鬼になるだなんて思ってもいなかっただろう。
大切に思う存在二人のうちどちらかしか守ることが出来なくて。
そしてイエスが選んだのは、チヒロだった。
出来ることなら――そう思ったことがないとは言わない。
後悔はしていない。
いや、出来るはずがないだろう。
だがそれでも、墓の中にさえ何もなくて。
そんな空っぽの墓を前に、どうしろと言うのか。
此処に来る度に、分からなくなる。
恭平がもういない事は理解している。
だが、墓の中にさえ何もないことをここに来る度に突き付けられる気がして。
確かに傍に在ったはずの存在が、幻だったのではと思ってしまう。
共に過ごした日々も何もかも、本当は全て幻で――そんなはずがないのに、墓の中に何もないという現実が、過去さえも不確かなものへと変えていく。
後悔なんてしていないが、ここに来る度に遣り切れない気持ちになる。
空っぽの墓に、手を合わせる気にもなれなくて。
だからと言って、代わりに何かに祈る気にもまた、なれなかった。
イエスは今まで一度も、恭平の墓の前で手を合わせたことがない。
「ねえ、イエスくん。もしも、もしもあの時恭平さんを――」
そこまで言ってチヒロは口を噤む。
なんだと聞いても、何でもないとそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。
ふいに浮かんだ言葉。
あれはいつの事だったか。
あの時チヒロが何を言おうとしたのか、イエスには分かっていた。
――もしも、恭平を救う方法があったなら。
そう、言いたかったのだろう。
既に人でなくなっていた恭平を救う方法なんて、恐らくはない。
それに万が一そんな方法があったとしても、チヒロがウイルスで恭平がワクチンである限りはきっと結果は変わらない。
恭平に自我があったなら、迷わず「俺を殺せ」とイエスに言っただろう。
そんな場面が容易に想像出来て、イエスは溜息を吐き出す。
だから、何も変わらない。
イエスだって、もしも――そう思ったことがないとは言わない。
チヒロと恭平。
大切に思う二人を、どちらも救う方法があったなら。
だが、現実にはそんな方法はなくて、いや、あったのかもしれないが、時間がなかった。
それでももしも、そんな方法があって時間もあったなら、どうしただろうかとイエスは思う。
答えを出そうとして、イエスは溜息を吐き出した。
「くだらねえ」
そう吐き捨てるように言って、空を仰いだ。
もしもなんてあり得ないことを考えてみても仕方がない。
チヒロが世界を滅ぼすウイルスだったのも、そのウイルスを殺すワクチンが恭平だったのも事実だ。
そして、チヒロを救うために恭平をこの手に掛けたのも、現実。
もしも、なんてことはあり得ないのだから。
墓へと視線を戻して、じっと見つめる。
イエスが独りでは生きて行けないと、そう言ったのは恭平だった。
だから、自分じゃなくずっと傍に居てくれる女の子を見つけろと。
そういう存在がイエスには必要なんだと、言った。
それに反発して、独りで生きて行けると証明するために参加したはずのTYB。
結果、あいつの、恭平の言った通り独りでは居られないのだと思い知った。
そして今のイエスの傍には、あの時恭平が言った通り、恋人と呼べる存在が居る。
大切だと思える存在を得て、満たされていた。
だがそれでも、恭平が消えたことでぽっかりと空いた穴は、未だに埋まることはなかった。
じっと空っぽな墓を見つめたまま立ち尽くす。
墓に手を合わせる気にもなれないのに、ここから離れる気にもなれなかった。
小走りに近づいてくる足音に気付く。
ああそういえば、あいつと待ち合わせしていたなと思い出した。
今日はチヒロと会う約束をしていて、待ち合わせをしていたのだ。
恐らくは待ち合わせ場所に現れないイエスを捜してここまで来たんだろう。
良く分かったなとも思うが、あいつの事だ今日であの日からちょうど一年だと気付いたんだろう。
そうすれば、イエスが此処に居ると想像するのは容易い。
「イエスくん」
呼ぶ声に振り返れば、案の定チヒロが小走りにイエスに向かって来ていた。
その手には花束があって、それが恭平の墓に供えるためのものだとすぐに分かった。
「やっぱりここに居た」
イエスの隣に立ってそう告げて、チヒロは墓に向かって歩く。
持ってきた花を供えて、手を合わせた。
その光景をただじっと、イエスは見つめる。
まるで祈りを捧げているようだと思いながら。
この先もきっと、イエスはこの空っぽの墓に手を合わせることはないだろう。
だがその代り、チヒロがイエスの分まできっと祈ってくれるだろうから。
だからそれでいいと思う。
――ここにこうして来てやるだけでも、ありがたいと思え。
そう、ここには居ないあいつに向かって思った。
『全く、イエスらしいよ。けど、来てくれてありがとう』
そんな声が聞こえた気がして、思わず苦笑する。
あいつは、恭平は、イエスがTYBを通して得たものを知ったら、きっと自分の事のように喜んだんだろう。
『やあ、チヒロさん、だったかな? イエスをよろしく頼むよ』
そう言う恭平に元気に答えるチヒロの姿まで想像出来て。
馬鹿か、とイエスは思う。
全てはイエスの想像でしかない。
どんなに捜しても、あいつはもう居ないのだから。
そんなことは分かっている。
この手で恭平を刺したのだ、誰よりもそんなことは分かっていた。
まだ恭平の墓に向かって手を合わせいるチヒロを見て、いつまでやってんだ、とイエスは思う。
「おい」と声を掛ければ、「ちょっと待って、もう少し」と返ってくる。
何なんだ一体と思い、溜息を吐き出した。
仕方がないからチヒロが満足するまで待つことにする。
どうやらチヒロは、恭平の死を自分のせいだと思っているらしい。
チヒロを助けるために、イエスが恭平を手に掛けたことにも、罪悪感があるらしかった。
被害者だろうにとイエスは思う。
勝手にプリンセスなんてものに選ばれて、しかもそれが実は、ウイルスを育てる母体に適しているからという理由で、勝手にウイルスを植え付けられて。
そして、結果ウイルスが育ちあんな目にあったというのに。
良く知らなかったとはいえ、自分の意思でワクチンになった恭平とは違うのだ。
恭平も、罪悪感からワクチンになったのだが、それでも、自分で選んだことだ。
納得は出来ないし、馬鹿な奴だとも思うが。
だがチヒロは違う、何も知らされることなく勝手にウイルスを植え付けられたのだ。
だから、罪悪感を抱く必要はない。
恭平とチヒロを天秤に掛けて、チヒロを救うことを選んだのは、イエス自身だ。
恭平を殺すと、イエス自身が決めたのだ。
後悔なんてしていないし、するつもりもない。
ただそれでも、遣り切れない思いが消えることはないが、それをチヒロのせいにするつもりもない。
だから――。
イエスの思考を断ち切るかのように、恭平の墓に手を合わせていたチヒロが立ち上がり、イエスの方へと小走りで近づいてくる。
「ごめんね、待たせちゃって」
「……ああ」
「そう言えばイエスくん。待ち合わせ場所に居ないから驚いたよ」
「……忘れてた」
「酷いな。……1年経ったんだね」
「……」
「いろいろあったけど、私はTYBに参加出来て良かったと思ってる。イエスくんにも会えたし」
「お前は、相変わらず変な女だな」
そう言えば、それでも構わないなんて言葉が返ってくる。
本当に変な女だと、改めて思って居た。
普通イエスのような男の傍に居たいとは思わないだろう。
TYBの最中も、なんで俺を選ぶんだと、もう俺を選ぶなと、言った事が何度かある。
だがチヒロは、そんなイエスの言葉に従うことはなかった。
肩書きやら恐怖やら、そんな事と関係なく「琉堂イエス」という人間を見てくれたのは、恭平とチヒロだけだ。
ずっと傍に居ると言ってくれたのも。
そう言ったくせに、恭平は居なくなったが――だから、いつかチヒロもという思いはどうしても付きまとう。
まあ、逃がしてなんかやるつもりはねぇけどな。
そんなことを思いながら、墓から離れるように歩き出す。
もう少しゆっくり歩いてと言いながら、チヒロが追い掛けて来る。
ちらりとそれを見て、仕方ないと少しだけ歩調を緩めてやった。
隣に並んだチヒロが、嬉しそうに見上げてくる。
それを見て、空を仰いだ。
いつか祈ってやるよ、お前の為に、な
そう思えば『期待しないで待ってるよ』なんて嬉しそうな声が聞こえる気がする。
祈るなんて柄じゃないが、まあいいかと思っていた。
この後どうするかと聞くチヒロに「何でもいい」と答えれば、「じゃあ、私が勝手に決めちゃうからね」と言う言葉が返ってくる。
いつもの事だろと思いながら、隣に居るのが当たり前になった存在を見つめた。
END
2012/10/12up : 紅希