■空中庭園

 『いいか、まずは見慣れる事だ。』
 『敵は手強い。けど、焦ったら負けだ。』

 針谷の言葉をくり返し思い出す。
 そして、人でごった返す日曜の臨海地区に降り立った。
 近くにアレがあるかと思うと、視界に入っていなくても緊張する。
 手のひらに滲む汗を握り締めてから、目的地に向かって歩き始めた。
 夕方を選んで来た甲斐があったと思う。
 同じ方向に向かう人よりも、向こうから帰って来る人の方が多い。
 ―――どんな醜態を見せるか分からないから、出来るだけ目撃者は少ない方が良い。

 苦手なものを克服する会、略して“ニガコク”。
 会なんて言っても、針谷が会長で俺が副会長という2人だけの集まりだ。
 針谷は怖いものが苦手で俺は高い所が苦手。
 それを克服するのが会の最終目標だった。
 月曜日に話した時に、次に集まる時は少しだけでも前進していようという事になった。
 だから今、俺はここに居る。

 「………空中庭園………」

 メルヘンチックに装飾された看板を見上げながら、ゴクリと唾を飲み込む。
 『360度に広がる空のパノラマ!』
 『地上の喧騒から離れて美しい空の庭園で憩いの時を!』
 『まるで雲の上を歩くような遊歩道もロマンチック!』
 煽り文句のひとつひとつが、俺にとっては想像するのも恐ろしい地獄絵図だ。
 針谷は見慣れれば何とかなるかもしれないと言っていたが、とてもそうは思えない。
 何度も遠目に見て、嫌がる足を何とか歩かせて、今日はようやく至近距離まで近付けた。
 実際に中に入る事は出来なくても、十分報告に値する進歩だろう…そうだと言ってくれ、針谷。
 よし、と呟いてUターンしようとした時、後ろから声をかけられた。

 「ややっ? そこに居るのは志波くんですか?」
 「……若王子、先生。」

 ギクリとして振り返ると、見知った顔が立っていた。
 人を避けてこの時間を選んだのに、よりによって何で俺を志波だと分かるヤツが現れるんだ。
 奇遇ですねぇ、なんて言いながら目を細めて微笑む先生に引きつりながら挨拶を返す。

 「もしかして、志波くんも空中庭園ですか?」
 「えっ…あ、いや。」

 『志波くんも』って言うって事は、先生は空中庭園に昇るつもりでここに来たんだろう。
 嬉しそうに俺を見ながら『丁度良かった』って何なんだ、先生。
 ―――嫌な予感がする。
 見に来ただけとか、ニガコクだとか、とっさに言い訳も出来ずに先生の言葉を待つ。

 「この時間帯は夕陽を見に来るアベックが多いですから、1人で困ってたんですよ。」
 「……いまどきアベックって、先生……」
 「志波くんがここに居てくれて良かった! さぁ、昇りましょう。」
 「や、だから違っ……」

 俺の腕をがしっと掴むと、先生はずんずん空中庭園の敷地内に入って行く。
 こっちが焦っているのも嫌がっているのもお構いなしだ。
 一応、陸上部の顧問をしているのは知っていたが、こんなに腕力の強い人だったなんて。
 乱暴に振り払う訳にも行かなくて、引っ張られるまま俺も中に連れて行かれた。
 大人1人と高校生1人。
 そう言って入場券を買うと、先生は迷うことなくエレベーターで空中庭園に向かう。

 「楽しみですねぇ。先生、好きなんですよ、ここ。」
 「はぁ。」

 こういう場所のエレベーターは、何故かガラス張りで外が見えるようになっている。
 徐々に離れて行く地上を出来るだけ見ないようにしているから、先生への相づちも上の空だ。
 ……て言うか、これから本当に空の上に行く。
 その事を出来るだけ考えないように、エレベーターの中に目を向けた。
 さっき先生が言っていたように夕陽を見に来る客が多いんだろうか。
 鮨詰めとまではいかないが、今、エレベーターに乗っている人数も意外と多い。
 その中に観光で来たとは思えない黒服・黒眼鏡の男を見つけて、思わず表情を険しくした。


 前に繁華街で先生に会った時もそうだ。
 何となく視線を感じて先生の背後に目を移すと、あの黒服・黒眼鏡の男が隠れていた。
 またそいつが現れたってことは、先生はいつもこんな風に後をつけられてるって事だろう。
 この人はきっと、その辺に居る普通の高校教師とは違う。
 あの時からそう確信している。

 『はぁ? 若王子がタダモンじゃない?』
 『何だよそれは。……まさか、新手のニガコクか?』
 針谷にその話をしたら、警戒するように少し目を細めながらそう言った。
 ……て言うか、針谷は先生が只者じゃなかったら怖いんだろうか。
 それはともかく、俺が真剣だと分かると針谷はまた少し考えてから頷いてくれた。
 『ま、普通のヤツとは違うってのは分かるけどな。…いろんな意味で。』
 針谷は良いヤツだと思う。

 色素の薄い髪と瞳。整った顔立ち。
 もっと“らしく”振舞えば見栄えがするだろうに、先生はそうはしない。
 学校で着ているのはいつも一昔前の教頭のようなセーターやベスト、くたびれた白衣だ。
 私服も一昔前の趣味、という意味では変わりがない。
 その上、喋らせれば流行りの終わった流行語だとか、実年齢に合わない言葉ばかりが出て来る。
 変なヤツ、とは思っていた。
 けど、だから何だって事も無かった。
 俺は俺で野球から目を逸らすのに必死だったし、担任でも無い教師を気にかける余裕なんて無かった。

 でも、只者じゃないと思って考えれば、普段の先生は………
 “らしく”振舞わないようして、本来の自分を隠しているんじゃないだろうか。
 ―――考え始めたら、気になって仕方がない。


 「……あいつ……」
 「志波くん、着きましたよ。」

 警戒心むき出しで男を睨んでいると、当の本人は何も気づかない様子で庭園に出て行く。
 ……いや。
 こんなにあからさまに尾行されてるのに、気づかないってことは無いだろう。
 俺は前回と同じように護らせてくれ、と言おうとして先生の方を見た。
 その瞬間、感じた眩暈。―――俺は今、一体、何処に居た……?

 「見て下さい、志波くん。街があんなに小さく見えますよ。…って、あれ?」

 先生はうずくまる俺を見て、焦って駆け寄って来た。
 ほんの数分間しか居なかった空中庭園で、覚えているのは先生の困った顔だけだ。
 せっかくの“ニガコク”の機会に、見られたくない姿をある意味一番見られたくない人に見られてしまった。
 高所恐怖症だと知って先生が俺を下まで連れて行ってくれた頃には、すでに男の姿は消えていた。
 踏んだり蹴ったりって言うのはこういうことだろう。

 「すみません、そんなに高い所が苦手だなんて知らなくて……大丈夫ですか?」

 申し訳なさそうに差し出された自販機のジュースを、頷きながら受け取る。
 もう完全に夕陽も沈んでしまい、“アベック”たちも帰ってしまった。
 少し離れたエレベーターの近くに居る従業員を除けば、ロビーにいるのは俺と先生だけだった。
 『ヤバいヤツに追われてるなら、俺が護ります。』
 高所恐怖症の恥を晒した直後に言っても、説得力が無い事は分かってる。
 それでも、一度目はキッパリ断られて、二度目は高所で言えなかった言葉をもう一度言おうとする。

 「大丈夫かっていうのは、先生の方じゃないんですか。」
 「先生は高所恐怖症じゃありません。大丈夫ですよ?」

 とぼけた答えを返した先生に、苦笑いを返しそうになる。
 ……それじゃ、駄目だ。話を逸らさせるな。
 先生のペースに流されれば、きっとまたウヤムヤにされてしまう。
 ジュースを一口飲んで間を開けてから、もう一度真剣に言った。

 「そうじゃなくて。先生、なんかヤバいヤツに追われてるなら……」
 「志波くん。」

 俺に護らせてくれ、と言おうとした言葉が先生の呼び声に遮られた。
 いつもぽやんと細められている目に、一瞬だけ光が灯ったように見えたのは、気のせいだろうか。

 「君は関わってはいけない。」

 俺の方を見つめながら、誰も入り込ませない凄味を持った声で先生はそう言った。
 只者じゃない、と思うのはこの迫力だ。
 思わず息を飲む。目を逸らせなくなる。
 ………と、すぐにいつものくだけた表情に戻った先生は、今言った言葉の先を続けた。

 「オレに関わると、ヤケドするぜ〜?……なんちゃって。」
 「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
 「昨日、懐かしい映画を見まして。音楽じゃなくても“オールディーズ”って言うんですかね?」
 「………知りません………。」

 すっかり力が抜けた俺は、継ぐ言葉も無く家に帰った。
 毎週月曜日が定例になっている“ニガコク”で、明日は一体何を報告すればいいのか。

 「若王子先生は、やっぱり只者じゃなかった…って?」

 針谷は良いヤツだから、そう言ったら心配してくれるかもしれない。
 ―――空中庭園なんて場所に挑戦したから、志波の頭がヤラれちまった……と。



END



2011/03/08up : 春宵