■風の行方
大社建立の進み具合を見るために訪れた帰り。
やにわに冷たい風が向かいから吹きつけ、後方へと通り過ぎて行った。
時雨に濡れた枯葉が震えるように微かになびき、余計に寒さを感じさせる。
「冬めいて参りましたね」
半歩程後ろに付き従って歩いている銀が声をかけて来る。
声音だけを聴けば寒さに動じているようには感じられぬ。
だが、横目に窺うその顔は己の吐く息の白さに眉をひそめているようにも見えた。
「奥州の寒さには慣れぬか」
この土地に馴染みのないお前にとっては、晩秋の風さえ真冬のように感じられるのではないか。
言外に皮肉めいた思いを込める。
「そう……なのでしょうか」
含みのある主の言葉に気づいているのか、いないのか。
銀は心底戸惑っているような顔で、答えの代わりに問いを返して寄越した。
銀には過去の記憶がないのだと言う。
かつて誰と何処でどのように暮らしていたのか。
その地の季節の移ろいがどのようであったかさえも。
何故この奥州に辿り着いたのか―――あるいは、何者かによって遣わされたものか。
今更それを理由に追い出すつもりはないが、折に触れて尋ねたことは幾度もあった。
銀はそのたびに『思い当たるところはない』という態度を貫いている。
だが、隠し立てをしていても意図せず漏れ出るのか。
身に着いた性分は記憶の有る無しに関わらず変わらぬものなのか。
常に傍に居れば、その過去を窺い知れる時もあった。
たとえば木枯らしが吹いた後。
動じぬ様子には見えても奥州の冬には慣れぬようだ、などというように。
「慣れぬ土地の冬ならば、一層、身体に気をつけなければいけませんね」
銀は、心からそう思っているとは聞こえぬ淡々とした調子で二の句を継いだ。
本心を偽っているようには見えぬが、想いが籠っているようにも思えぬ。
記憶を失くすというのは、心まで虚ろにするのやもしれぬ。
慣れぬ奥州の冬に戸惑う銀の姿を見ていて重ねた姿があった。
『奥州は……寒いな』
庇護を求めて訪れた奥州で初めて冬を迎えた“御曹司”は、身を震わせながら言ったものだ。
俗世に交わり平家に仇為すことがないように、と九郎は幼い頃に鞍馬山に預けられている。
平地で暮らすよりは寒い冬を過ごしていたとは言うものの、奥州ほどではなかったのだろう。
『俺は兄上をお支えするために鎌倉に行き優れた将となる』
何かにつけてそのような望みを語っていた九郎が、憚ることなく寒さに震えている。
それを見て『優れた将になる気があるのなら動じる姿など周りに見せるな』と諭したのは、もう十年ほども昔の話だ。
だが、俺の言葉に苦笑いを返した九郎の寒さに青ざめた顔は、いまだにはっきりと思い出せる。
そして、九郎が傍を離れた隙に弁慶にかけられた言葉も。
『九郎が寒いとあからさまに言えるのは……貴方が相手だから、かもしれません』
『……何?』
『不遇を訴えれば叛意があると疑われる。鞍馬山では寒いとさえ言わなかったと思いますよ』
『言わなかった、ではなく言えなかった……か』
この目には気ままに振る舞っているようにしか見えぬ御曹司が、立場を慮って『寒い』の一言も言わなかっただと?
あり得ぬ……と思いながらも、手足を冷たさに赤くして立ち尽くす九郎の姿は、思いのほか容易く目に浮かんだ。
『庇護して下さっている御館でも、従者の僕でもなく、貴方だからこそ本音を零せるのかもしれません』
弁慶の言葉を思い出しているうちに、思わず自嘲の笑いが漏れた。
立場を気にかけず物を言える相手。
俺がそうだと言うのなら、俺は九郎にとって―――何者でもない。
愚痴を幾らか零しても害にもならなければ益にもならない。
そういう存在だということではなかったか。
「……っ」
再び木枯らしが吹きつけてきて思わず足を止めた。
身体を押すような勢いに、足裏に力を込めて踏み止まる。
そうしているうちに風は通り過ぎ、すぐに晩秋の静けさが戻ってきた。
九郎が奥州にいる間、気ままに吹きつける風にいつも翻弄されているようだった。
昨日には京に、今日には奥州に、明日には鎌倉に。
源氏に生まれたという境遇のせいとは言え、各地を渡り歩く九郎はまさに風のように身軽な存在に見えた。
九郎にとって何者でもない俺は、その風を受けても足裏に力を込めて踏み止まっていただけだった。
やがて風は俺を残して通り過ぎ、何処かへと流れていく。
踏み止まったこの目には、風の行方を追うことさえ出来ない。
そして、一吹きごとに近づく冬に身を震わせているしかないのだ。
―――九郎の居ない季節に動じている想いなど、他の誰にも見せることなく。
「泰衡様、どうかされましたか」
中々歩みを進めない主を訝しんで銀が声をかけて来る。
何でもない、と即答して再び館へと向かって足を踏み出す。
前方では木枯らしが、一枚だけ落葉せず残っていた枯葉を揺らしていた。
END
2022/12/15up : 春宵