■夢の果て
……ああ…もうすぐ起きなきゃ……。
カーテンの隙間から漏れる朝日が頬に当たる。
“遠坂凛”は寝坊も遅刻もしない。
朝になればシャンと起きて、涼しい顔で『おはよう』と言えなければいけない。
前夜、魔術の修業で夜更かしをし、ほとんど寝ていなくても。
どんなに辛い事があっても、起きたくない理由がある時でも。
魔術師の家系の中でも名門に生まれた凛は、小さな頃から『らしく』振舞おうとしてきた。
家の外ではもちろんのこと、家の中、家族の前でもだ。
柳洞一成をして“女狐”と言わしめるその性格は、一朝一夕に出来あがったシロモノではないのだ。
けれど、凛はある時、気づいてしまった。
幾重もの結界に護られた家の中で“遠坂凛”らしく振舞う必要なんてもう無い事に。
そこには『上出来だ』と褒めてくれる父親も、優しく笑いかけてくれる母親ももう居ないから。
朝が来たのは分かっても、早めにセットした目覚ましアラームはまだ鳴っていない。
凛は薄眼を開けて時間を確かめると、覚醒しかけた意識を眠りに戻して夢の続きを追った。
◇◆◇
夢の中の赤い背中はいつも一人だった。
身体を張り、心を削って、世界を救う名もなき孤高のヒーロー。
敢えてそう言えば、少しはマシに聞こえるのかもしれない。
けれど、彼は決してそんな格好の良いものではなかった。
戦闘能力も、魔術の才も、特異なほど傑出している訳ではない。
凛の目から見てもそうなのだから、一流と呼ばれる者と相対すれば負けるのは必然。
そこを意志の強さだけで折れずに前に立ち塞がっている。脅威と思わせている。
そういう戦い方をするから、彼が世界を救う頃には十中八九、ボロボロになった。
なのに、そこまでして救った命から喜びや礼を返されることはほとんど無かった。
『正義の味方』―――彼はきっと、そんな存在になりたかったんだろう。
失われる命があればそこに駆け付け、自身を顧みずに戦っていた。
もしも彼が典型的なヒーローのようになりたかったのなら、まだ良かった。
助けるべき相手さえ助ければ、めでたしめでたし…と。
けれど彼は一途に、あるべき『完璧な正義の味方』像を求めてしまった。
100人を救うために1人の悪人を殺す。
すべてを等しく助けたいと願う彼にとって、それさえも大きな矛盾だった。
そして彼をさらに破綻させたのは、犠牲が悪人1人では済まなくなる事態を何度も体験した事だ。
見ず知らずの100人を救うために、9人の善人と1人の悪人が乗った船を無慈悲に沈める。
たとえば9人の善人の中に親しい友人や家族、恋人がいたとしても、そうすることが出来る。
―――『出来る』と『望む』は必ずしも両立しない。
けれど、彼は感情を表に出そうとはしなかった。
助けられなかったことを悔いれば、言い訳になってしまうからだ。
掃除は無駄なく効率良く機械的に済ませば良い。
いかにもそう思っているように無感情に振舞った。
だから、犠牲になった9人の身内からは恨まれ、救ったはずの100人からも歓迎されなかった。
滅び逝こうとする世界を嘆き憤って、ひとり。
そこから救おうと武器を手に取って、ひとり。
助けた命にさえ感謝されることなく、ひとり。
世界を救う名もなき孤高のヒーローは、そんな在り方を繰り返してきた。
『正義の味方』になろうとした経緯を凛は知らない。
夢の中ではその過去までは語られない。
それでも、凛には分かるような気がしたのだ。
きっと彼は、シャンとして起きる事を放棄した瞬間の凛と同じなのだと。
想いを募らせてようやく辿り着いた夢の果て。
“そこ”が思い描く幸いの在処ではないと気づかされた時、想いが強いほど心は容易く折れてしまう。
折れた心は、ささくれて少しの刺激にも敏感に反応する。
痛みに呻いて助けを求めたくても、彼はいつも一人だったのだろう。
『いったい、何をどうしたらそうなるのよ』
夢の中、赤い背中を追い続ける凛は、ふつふつと煮える胸の熱さを吐き出すように悪態をつく。
そんな生き方を選び続けた彼を詰るように。
『それに……ずっとひとりってことは……そういうことなんじゃないの』
そして、いつか過去のどこかで彼をひとり残したであろう、自分に憤るように。
◇◆◇
「…ん、……かげ……おき………」
「……………?」
「あと……怒っ…………ない………」
さっき目が覚めた時は、確か朝日の眩しさに起こされた気がしたんだけれど。
今度は小鳥の鳴き声ならぬ、不機嫌そうなサーヴァントの声らしい。
一応、状況分析などをしてから、凛は薄眼を開ける。
声がしたあたりには、腕を組んでベッドに寝ている凛を見下ろす赤いサーヴァントの姿があった。
「凛。いい加減に起きないと遅刻するぞ。」
もう言い飽きた、とでも言いたげなうんざりした声でアーチャーは繰り返す。
なかなか起きない凛の先回りをして朝食でも用意していたんだろう。
平服にエプロンを着けた姿はとても弓兵のクラスを冠する英霊だとは思えない。
……ま、これはこれで似合ってるけど。
心の中で密かに思いながら、凛は枕元にあるはずの時計を探す。
「ん……今……何時?」
「7時45分といったところだな。」
アーチャーが答えたのとほぼ同時に時計を手に取った凛は、しばらく凍りついた。
そして大きく息を吸い込むと、猛烈にアーチャーに抗議する。
「…………はぁ!? なんでもっと早く起こさないのよ!!!」
「―――何度も起こした。だから、後で怒っても知らないと言ったのだ。」
信じられない、と叫ぶように言いながら洗面所に駆けて行く。
その後ろ姿を見送りながら、赤いサーヴァントはため息のように息を吐いた。
本当ならば、もっと寝かせておいてやりたかったと思う。
自分のマスターがそういう甘えを嫌う事を知っていてなお、気遣わずにいられなかった。
“遠坂凛”として学校生活をおろそかにしない彼女が聖杯戦争に時間を使うのは、主に夜だ。
放っておいても睡眠時間が短くなってしまう上に、サーヴァントの存在も彼女に負荷をかけている。
体力が落ちているところに魔力まで供給し続けていれば、寝起きも悪くなるというものだ。
そしておそらくは、魔術回路を繋げる事で垣間見るはずのアーチャーの精神世界も負担になっているだろう。
けれど、凛は弱音らしきものを決して口にしない。
「…まぁ、そういうところが“遠坂”らしいんだが。」
かつて仄かな憧れを抱いた、名前と同じ凛とした彼女の在り方。
擦り切れそうな遠い過去の記憶と重ね合わせて、アーチャーは僅かに微笑む。
ずっと目指し続けてきた理想に溺れ、辿り着いた夢の果て。
―――果ての果て、なのかもしれないが。
そこで最後に救う命が“これ”ならば、そう悪くもない結末かもしれない、と。
束の間、目を閉じ想いを馳せたアーチャーは、再び目を開け朝の喧騒に戻っていった。
「凛、慌てて走り回っていると転ぶ………そら、言ってるそばからこれだ。」
「〜〜〜〜誰のせいよ、誰の!」
END
2011/08/20up : 春宵