■儚き過去

「左京さん、おかえりなさい」

出先から寮に戻ると、監督さんが玄関に立ちはだかっていた。
仁王立ちで帰りを待ち構えていられたのだから、さして大げさな表現でもないだろう。
何かをしでかした可能性を考えてみる。……が、少なくとも俺には思い当たる節がない。
手掛かりを探せば、監督さんの背後にある大きな紙袋と手書きの名簿らしきものが目につく。
……ああ、そういうことか。
俺が見当をつけたのとほぼ同時に、監督さんが小さな箱を差し出してきた。

「これ、バレンタインです」
「やっぱりか。どうせ金を使うなら、小道具のひとつでも買ってくれた方が劇団のためになるがな」
「こういう時でもないと、皆に感謝の気持ちを伝えられませんから」

監督さんの後ろの紙袋には、俺に差し出されたのと同じような箱がいくつも入っているのが見える。
数から言って、劇団員だけじゃなく関係者や知人にまで渡すつもりなのかもしれない。
春の惨憺たる状態ならともかく……今、皆に1つ1つ配ろうとしたら、結構な手間だろう。
監督さんの“感謝の気持ち”とやらの幅広さに、思わず苦笑した。

「劇団に借金を作らせたヤクザにまで感謝するとは、ずいぶんと大盤振る舞いだな」
「そのお金が無かったら劇団そのものが無くなっていました。今なら、有難さが分かります」
「………それは、俺の勝手な都合でやったことだ。お前に感謝される筋合いはない」
「でも、私は感謝しています。それに、左京さんには今も助けられてばっかりです。いつもありがとうございます!」

監督さんは頭を下げながらもう一度、箱を俺の方に差し出してくる。
せいぜい『仕方ない』という顔をして、それを受け取った。
黄色い装飾に、監督さんが異様に情熱を傾けるあの食い物が重なる。

「おい、まさかチョコまでカレー味なんてことはねぇだろうな……?」
「あ、それは思いつきませんでした。今度、作ってみますね!」
「〜〜〜作らなくていい!」

余計なことを言うんじゃなかったと、舌打ちをしながら自室に向かう。
部屋の奥にあるデスクまで歩いて監督さんに貰った箱を置くと、椅子に深く腰掛けて息を吐いた。

「……感謝の気持ち、ねぇ」

それにしては小せぇ、と冗談めかした言葉を吐いて笑いを漏らす。
手荷物の中にも出先で貰ったバレンタインチョコがいくつか入っている。
松川がファンからチョコが届いてるから後で取りに来いと言っていた。
だが、今年はきっと、その中のどれよりもこの小さな黄色い箱が俺にとっては重たい。

俺は、誰かさんのような幅広い“感謝の気持ち”なんぞ持ち合わせちゃいないが。
助けられたことに感謝しているという意味では、監督さん以上に強い想いを持っている。

ヤクザになった俺にはもう出来ない、関われない、諦めるしかない、と。
蓋をしようとしていた芝居への想いを解放したのは、ガキの頃、俺の手を引っ張ってMANKAIカンパニーの稽古に誘い込んだ少女だった。
……『少女』なんて今のあいつに言ったら、マズいカレーでも口に放り込んだように怒るだろうが。
俺はあの日の少女に、再び芝居の世界に引っ張り込まれることとなった。
結果、救われたのは……廃れようとしていた劇団の将来だけじゃない。

少女の記憶とともに儚い過去の遺物になろうとしていた芝居への憧憬。
いつかMANKAIカンパニーの舞台に立ちたいと願った夢。
当時の総監督―――少女の父である幸夫さんと、少女に恩返しをしたいという想い。

放っておけば後悔とともに胸の奥にしまっておかれるはずだった願いを、今になって叶える機会を貰えたことに、いくら感謝してもしきれない。

「……ホワイトデーは奮発してやるか」

呟いてから、1ヶ月後の劇団の混沌とした様子を想像して辟易した。
あいつが劇団の皆に贈るチョコはおそらく、見かけも味も変わらない同じ物だろう。
だが、お返しに必要以上に躍起になるヤツは、監督本人が自覚している以上に多いはずだ。
何を贈れば気に入ってもらえるのか。
どうやって気を惹いてやるか。
今日からの1ヵ月、まるで勝負事のようなざわついた空気が、この寮の中にも流れることだろう。

「ああ……面倒くせぇ」

心底そう思うものの、負けてやる気にはならない。
一度は諦めたものをもう一度追いかけられる。
チャンスを与えた上に、くすぶる想いを焚きつけたのは他でもないあいつだ。
そのお礼参りくらいはさせてもらわないと割に合わない。

「勝負は1ヶ月後だ」

照準を合わせるように呟いて、情報収集のためにパソコンの電源を入れた。
来年は、その他大勢と同じ包みを渡されることが無いように―――。
この歳になって今更、と思うような仄かな浮遊感を胸に感じながら。



END



2018/02/09up : 春宵