■眠れない
シンと静まり返った真っ暗な部屋の中。
陽介は独りグラスを傾ける。
グラスの中の透明な液体を煽るように飲んで、溜息を吐き出す。
分かっているし、疑っている訳でもない。
それでも――不安になる。
はあ、と再び溜息を吐き出して、自嘲するように言葉を紡ぐ。
「菜々子ちゃんがライバルとかホント勘弁してくれ」
勝てる気がしないと陽介は小さく続ける。
紡いだ言葉に返る声はない。
当然だろう。
今この真っ暗な部屋の中には陽介以外に誰もいない。
一緒に暮らしている鳴上は、もう既に自室で眠っているのだから。
陽介も一度は、自室のベッドへと入った。
だが、眠れないのだ。
三連休の最終日が、もうすぐ終わる。
陽介はこの三連休を使って、稲羽へと行ってきたのだ。
本当は鳴上と一緒に行く予定だったのだが、鳴上は急遽仕事になってしまい、行かれなかった。
せっかくだから行って来いと言われたから、陽介は独りで行ってきたのだ。
グラスの中身を飲み干し、どうせ眠れないのならと、稲羽での出来事に思いを馳せる。
八十稲羽の駅に独り降り立ち、変わらないな、と思う。
この地を離れてそれなりの年月が過ぎていた。
「陽介お兄ちゃん!」
懐かしい、と思っていた陽介の耳に、懐かしい声が届く。
あのころと比べて幼さの抜けたその声は――堂島菜々子のものだった。
高校生になった菜々子は、随分と背も伸び、もう女の子と言えなくなっていて。
けれど、纏う雰囲気はあの頃のままで、懐かしさに目を細める。
「菜々子ちゃん。ごめんな、せかっく迎えに来てくれたのに、鳴上仕事になっちゃって」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんから連絡もらってるから」
そう言って菜々子は笑う。
けれどやはり寂しいのだろう。
本当に微かだが、菜々子の表情が僅かに曇った事を陽介は見逃さなかった。
相変わらずだなと思いながら、菜々子とともに稲羽の町を歩く。
菜々子も鳴上も、相変わらずだった。
鳴上が菜々子に連絡をしていたことを、陽介は知らなかった。
元々、鳴上と菜々子は本当の兄妹のように仲が良かったが。
菜々子が事件に巻き込まれて以降、鳴上の菜々子への態度は過保護だとはっきり言えるようなものになった。
それが罪悪感から来ているものだと分かっていたから、陽介は何も言わなかったけれど。
ただ、鳴上にとって菜々子がそれ程特別な存在だという事を、陽介は良く知っていた。
だからこそ――菜々子の言葉に驚いたのだ。
いや、菜々子の言葉自体に驚いた訳ではない。
なんとなくだが、そうだろうと思った事は何度かあったから。
陽介に告げた事に、驚いたのだ。
何故、と思った。
どこからそんな話になったのかは覚えてない。
菜々子の初恋の相手が、鳴上だったと、そして今でも菜々子は――鳴上を想っているのだと。
少し照れたような表情でそう告げられたのだ。
「内緒だよ」
と言って笑う菜々子は、本当に可愛かった。
そこまで思い出して、陽介は溜息を吐き出す。
鳴上の気持ちを疑う訳じゃない。
共に在るようになって、それなりの時間が過ぎている。
今の関係になるまでに色々あった。
互いに相手を思いながら、別の女性と付き合ったりもした。
だが、それでもこうして鳴上は陽介と共に在るのだから。
この先も、変わらないだろう。
分かっているし、疑っている訳でもない。
鳴上が菜々子を妹としてしか見てない事も分かっている。
それでも、菜々子は鳴上にとって特別で、だからこそ不安になるのだ。
仕事だから寝ないといけないのに、眠れない。
はあ、と再び溜息を吐いた途端、真っ暗だった部屋が明るくなり驚く。
見れば、いつの間にそこに居たのか、鳴上が立っていた。
「お前、寝たんじゃなかったのか」
「稲羽から帰ってきてからずっと、様子がおかしかったからな。眠れる訳がないだろう」
そう言われて、はは、と力なく陽介は笑う。
本当に相変わらずだと思う。
普段通りに振舞っていたはずだ。
鳴上以外の相手ならば完璧に騙せたはず。
どうして分かるんだとは思うが、陽介が鳴上の立場でも分かるだろう。
だから、なんでもないと言ったところで通用しないことも分かる。
言えと無言の圧力を掛けてくる鳴上を見て、さてどうしたものかと思う。
そのまま言えば、確実に鳴上の機嫌が悪くなる。
かと言って、このままやり過ごせるはずもない。
そんなことは長い付き合いの中で良く分かっていた。
だからもう仕方がないと、全部話すことにする。
鳴上と菜々子の間には、誰も入れない何かがある。
家族というだけじゃない、何かが。
「内緒だよ」と笑って言った菜々子に、ごめんねと心の中で告げる。
そうして、陽介は稲羽での出来事を、鳴上に話した。
陽介の話を聞いた鳴上は、無言で陽介を睨みつけるように仁王立ちしている。
張りつめた空気の中、鳴上が溜息を吐き出す音がやけに大きく響いた。
「菜々子は妹だ。それは分かってるんだろう?」
「ああ、分かってる。疑ってる訳でもない」
「……なら、いい」
「――は?」
「言いたいことは色々あるが、取り敢えず、寝ろ」
一緒に寝てやるから。
続けられた言葉に、陽介は驚き目を見開く。
何を、と問う間もなく手を引かれ立たせられ、そのまま陽介の部屋へと向かった。
「ちょっと待て! シングルベッドに男二人は狭いだろ」
「そうだな」
「そうだな、じゃなくて」
言った瞬間、ドンと押されそのまま陽介はベッドへと倒れこむ。
倒れこんだ陽介を奥へと押すようにして、鳴上もベッドへと潜り込んできた。
「だから、鳴上」
「煩い、眠い」
「……あのなあ」
「いいから寝ろ。これ以上余計な事を考えるな」
全部話したからか、鳴上が菜々子の想いを知っても何も変わらないからか。
すぐ傍にある温もりのせいなのか。
分からないが、眠れなかったのが嘘のように、眠気が襲ってくる。
「おやすみ」
すぐ傍で聞こえた声に誘われるように、陽介は眠りに落ちていく。
これからもずっと共に在れると、信じて。
END
2014/12/08up : 紅希