■理由
―――目が覚めると、ひどく寒い場所に居た。
ぼんやりする頭が回転を始めるまで、緩慢な動きで瞬きをしながら周囲を見回してみる。
けれど、光が一筋も射さない闇の中で見えるモノは何もなかった。
腕は手首のあたりと肘のあたりで縛られていて、使い物になりそうにない。
脚も同じように足首と膝のあたりで縛られている。
手探りで結び目を見つければ何とか解くことが出来るかもしれないけど……。
文字通り『骨が折れる』作業になったら不便だから、とりあえずやめておく。
何も見えず、何にも触れずに確認できる状況は、冷気で鼻や喉の奥が痛い事くらいだろうか。
外に出れば体温のような気温に眩暈を感じるこの季節。
冬以上に寒い場所なんて、少なくとも日本国内ならそう多くないはずだ。
「………業務用の冷凍庫か何か、か」
とりあえず、予測できたところで床に放り投げられたのであろう身体を起こす。
一体、どのくらいの時間放置されていたのか。
床に張り付くように凍ったシャツがバリバリと音をたてた。
縛られたまま出来る動きは限られている。
血流も悪くなってるだろうから、指先に感覚が無くなるのも時間の問題かもしれない。
そう判断して、にじり寄るように壁を探り、扉らしきものを捜す。
進んだ方向が良かったんだろう、目的の場所はすぐに見つかったけれど。
「ま、当然っしょ」
出入り口の取っ手らしい金属を押しても引いても、外側で固定されているらしく少しも動かなかった。
確かめるべきものは確かめた。
一応、自分の置かれている状況に納得して、扉の横の壁に寄りかかって座り込んだ。
特にする事もないから、ここに至る経緯を思い出してみる。
今日は、鵠さんから運び屋のバイトを頼まれて。
不慮の事件事故以外には危険がない相手だと言うから、“中華鍋”も持たずに待ち合わせ場所に行って。
無事に届け先に渡して、じゃぁ帰ろうかと振り返ったところで―――頭に衝撃が走った。
そんな、感じ?
どうりで、目が覚めた時から後頭部が痛む訳だ。
今さら頭を擦ってみても、髪に付いた氷が水なのか血なのか手触りだけでは区別がつかなかった。
死ぬかもしれない、という恐怖は別に感じない。
閉じ込めた相手が誰なのかも別にどうでもいい。
ただ、煙草も吸えないから手持無沙汰で、この後の自分の末路を考える。
凍死するのに何時間かかるんだろう?
凍え死ぬのと酸欠で死ぬのと、どっちが先だろう?
いや、打ち所が悪ければ脳内出血や出血性ショックもあり得るだろうか?
そのどれが正解だとしても待つのは退屈だ、とため息をつく。
この状況で気がかりなことがあるとすれば―――
届け先が危害を加えた相手だとしたら、鵠さんに害が及ぶことはあるだろうか、とか。
バイトを途中棄権したら違約金は身体で払える額だろうか、とか。
それ以前に、ここから出た時は違約金を身体で払えるような状態だろうか、とか。
―――それから。
自分が居なくなったら、猫は新しい飼い主を見つけられるのか、とか。
「………………………」
胸がチクリ、と痛む。
その痛みの正体を追求するよりも先に思い出した。
いつもなら依頼を終えた後でも、それなりに周りを警戒して動いている。
なのに今日、あの瞬間に限って気を抜いていた理由を。
『なぁ、久保ちゃん。バイトの帰り、買い物頼んでもいい?』
『いいけど。何?』
『 』
『分かった。買ってくるから良い子でお留守番してなさいよ?』
ど忘れというものを久々にして、思い出せなかったんだ。
時任が何を買って来てと言ったのか。
朝焼けの空を見上げて、ほんの数時間前に交わした言葉の内容を考えていた。
夏は朝から暑くて煩わしくてあまり心地のいいものじゃないけれど。
少しだけ気温が下がった明け方に見る太陽は、家で待っている飼い猫によく似ている。
そんな事を、頭の片隅に思い浮かべながら―――。
「………何買えばいいんだったかなぁ」
「―――――――――――――!!!」
暗闇の中、呟いた言葉と遠くから聞こえた微かな声が重なった。
何と言っているか分からないくらい小さくても聞き分けられる飼い猫の呼び声。
………こんな例え方をしたら本人はかなり怒るだろうけど。
親猫が傍を離れた時に、必死に呼んでる子猫の声みたいだと思った。
聞き分けられるのは親だけだ、という習性も含めて。
そしてその声は着実に、こっちに向かって近づいてくる。
「………い、…………のかー!!!」
(なんでそんな、大きい声で呼ぶかな)
「……ぼちゃ………!!!………ねぇ……?」
(もしも敵が隠れてたらすぐに見つかるっしょ)
「おーい! 久保ちゃ――ん!!!」
(だから呼ぶのは止めなさいってば)
「居るなら返事しろよ―――!!!」
(………分かったから、時任………)
言葉にしても、分厚い扉に阻まれて俺の声はきっと聞こえない。
だから名前を呼ぶこともなく声が通り過ぎるのを待とうとした。
時任まで危険な目に合わせることはない。
鵠さんか葛西さんあたりに言えばきっとこの場所を探してくれる。
少なくとも、バイトの帰り道に消えた俺の居場所を知るために、どちらかに頼っただろうし。
見つかった時、俺が生きているにしても死んでいるにしても、時任が無事ならそれでいい。
だから、このまま、やり過ごせばいい。
そう思う間中、ずっとバンバンと耳障りな音が聞こえていた。
時任の呼び声が聞こえなくなるほど激しい雑音だった。
―――音の正体に気づいたのは、低温火傷と破裂した水ぶくれで手が痛くなってからの事だ。
それは居場所を知らせるために扉に向かって打ち付けられた自分の両腕の出す音だった。
程なく、鎖を乱暴に壊すような音の後、眩しさとともに時任が中に飛び込んでくる。
逆光で表情の見えない飼い猫の顔を朝日を見上げた時と同じような想いで見上げた。
「久保ちゃん! 生きてっか!?」
「………たぶん」
「たぶん、じゃねーよ。勝手に死んだら怒るかんな!」
「そーなの?」
「あったり前だろ。帰りにアレ買ってくるって約束したんだから」
生き死にの理由にしてはずいぶん勝手な時任の言い分に、笑いが漏れる。
それは苦いだけじゃない―――どこか温かい笑いだったのかもしれない。
死ぬのが怖いと思う理由は、やっぱり無い。
時任を1人残して逝くことになっても。死んだら怒ると諭されても。
けれどまだ、生きる理由は残っていたらしい。
バイトの帰りに買い物を頼まれる。
拾った猫のために食事を用意する。
ゲームを買いに行くのに付き合う。
拾った猫のために生きている、とは思わないけれど―――
交わした小さな約束をひとつひとつ守っていく。守らされていく。
そんな些細な事がいくつも積み重なって、生きる理由になっていく。
「何、買ってくるんだっけ?」
「げ、信じらんねー。忘れたのかよ!」
「ど忘れ」
「なんだよ、せっかく良い子で待っててやったのによ……ブツブツ」
すっかり昇り切った太陽を背に2人で並んで歩く。
怪我が目立たないようにポケットに入れて歩く手の痛みが、煩いほど主張していた。
まだ自分が生きている証を。
END
2013/07/30up : 春宵